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エッヂの名無し
2024/09/22(日) 18:31:50.057 ID:jiPa46JHV
寛弘5年(1008年)初春、ついに彰子の懐妊が判明する[注釈 7]。9月11日、三十時間以上におよぶ難産の末[25]、土御門殿にて一条天皇の第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産した。
彰子の女房であった紫式部の手になる『紫式部日記』にはこの懐妊・出産の様子が詳細に綴られている。
道長は大いに喜び、一条天皇もきっちりとした後見の元に皇子が生まれたことに安堵したらしい[注釈 8]。
一条天皇は彰子と若宮の内裏参入が11月17日と聞いたため、「あまりに先のことであるから(待ちきれないので)自分が訪れる」[27]と言い[28][29]、10月16日に土御門殿へ行幸する。
しかし、この出来事を不満に思ったのは妹の定子が産んだ第一皇子の敦康親王を甥にもつ伊周であった。
寛弘6年(1009年)正月末、彰子と敦成親王への呪詛が発覚する[30][31][32]。
呪詛を行ったとして捕縛されたのは円能という法師で、関係者に高階明順、高階光子、源方理の名前が出た。
彼らは全て伊周の縁者であり[注釈 9]、朝政に復帰していた伊周も大きな打撃を受ける。
彰子の女房であった紫式部の手になる『紫式部日記』にはこの懐妊・出産の様子が詳細に綴られている。
道長は大いに喜び、一条天皇もきっちりとした後見の元に皇子が生まれたことに安堵したらしい[注釈 8]。
一条天皇は彰子と若宮の内裏参入が11月17日と聞いたため、「あまりに先のことであるから(待ちきれないので)自分が訪れる」[27]と言い[28][29]、10月16日に土御門殿へ行幸する。
しかし、この出来事を不満に思ったのは妹の定子が産んだ第一皇子の敦康親王を甥にもつ伊周であった。
寛弘6年(1009年)正月末、彰子と敦成親王への呪詛が発覚する[30][31][32]。
呪詛を行ったとして捕縛されたのは円能という法師で、関係者に高階明順、高階光子、源方理の名前が出た。
彼らは全て伊周の縁者であり[注釈 9]、朝政に復帰していた伊周も大きな打撃を受ける。