「今日は、スペインのゲルニカが爆撃された日なんですよ…」 (1)

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1 野に咲く名無し@転載禁止 (05475e7b) 2024/04/27 (土) 22:39:35.915 ID:95Z5eS9ZK主

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反戦の象徴《ゲルニカ》はいかにして生まれたのか。20世紀の大芸術家、パブロ・ピカソの人生
1937年4月26日午後4時30分頃、スペイン・バスク地方の都市、ゲルニカの上空を爆撃機の編隊が横切った。それは、ナチスドイツ空軍のコンドル軍団とファシスト政権下のイタリアが派遣したアヴィアツィオーネ・レジオナリア(空軍遠征隊)の一団で、前年に発足したスペインの社会主義政権に対しクーデターを起こした右派の指導者、フランシスコ・フランコ将軍を支援するためにゲルニカを破壊する任務を帯びていた。
数時間にわたり大量の爆弾が投下された空襲で、ゲルニカの大部分は廃墟と化した。民間人の犠牲者数は特定されておらず、総人口7000人のうち200人以下という説から1000人以上という説までさまざまある。その後、ワルシャワやロッテルダム、コヴェントリー、ドレスデンで行われた空襲ではこれをはるかに超える犠牲者が出ているが、ゲルニカの被害は歴史上にひときわ深く刻まれることになった。その理由となったのがパブロ・ピカソだ。

戦争の残虐さを強く訴え、のちに反戦の象徴となった傑作《ゲルニカ》(1937)で、ピカソはこの出来事を人々の記憶に定着させた。約350 × 780センチメートルのこの大作は、ほぼ全てが無彩色で、動物や母子などが苦しみ悶える様子が描かれている。

1937年4月26日午後4時30分頃、スペイン・バスク地方の都市、ゲルニカの上空を爆撃機の編隊が横切った。それは、ナチスドイツ空軍のコンドル軍団とファシスト政権下のイタリアが派遣したアヴィアツィオーネ・レジオナリア(空軍遠征隊)の一団で、前年に発足したスペインの社会主義政権に対しクーデターを起こした右派の指導者、フランシスコ・フランコ将軍を支援するためにゲルニカを破壊する任務を帯びていた。

数時間にわたり大量の爆弾が投下された空襲で、ゲルニカの大部分は廃墟と化した。民間人の犠牲者数は特定されておらず、総人口7000人のうち200人以下という説から1000人以上という説までさまざまある。その後、ワルシャワやロッテルダム、コヴェントリー、ドレスデンで行われた空襲ではこれをはるかに超える犠牲者が出ているが、ゲルニカの被害は歴史上にひときわ深く刻まれることになった。その理由となったのがパブロ・ピカソだ。

戦争の残虐さを強く訴え、のちに反戦の象徴となった傑作《ゲルニカ》(1937)で、ピカソはこの出来事を人々の記憶に定着させた。約350 × 780センチメートルのこの大作は、ほぼ全てが無彩色で、動物や母子などが苦しみ悶える様子が描かれている。

《ゲルニカ》は、《アヴィニョンの娘たち》(1907)に次ぐピカソの重要作品とされる。どちらにも強烈なインパクトがあるが、《ゲルニカ》の印象はずっと重々しい。また、この2つの絵には見た目の印象以外にも違いがある。《アヴィニョンの娘たち》を手がけた頃のピカソは、まだ仲間以外にはさほど知られていなかったが、《ゲルニカ》を描いたときのピカソは、すでに世界的スーパースターとしてその名を轟かせる存在になっていた。

第1次世界大戦後のイタリア旅行と最初の結婚
第1次世界大戦の余波がヨーロッパを覆っていた1921年、ピカソはキュビスムから次の段階へと移行する。この戦争では夥しい数の若い男性の命が奪われ、1つの世代がほとんど根こそぎ失われたとさえ言われる。そうした壊滅的な打撃と犠牲者数の多さに人々が茫然自失に陥る中、アーティストたちの中からは新たな胎動が生まれた。

戦争でそれまでの価値観が崩壊すると、2つの運動が起こる。1つは、フロイトとマルクスの影響を受けたシュルレアリスムで、創始者の詩人アンドレ・ブルトンが「堕落し愚鈍化した狭量なシステム」と呼んだ社会秩序への反抗を目的としていた。

もう1つは「秩序への回帰」と呼ばれる。初期の前衛芸術運動に関わっていた一部のアーティストは、機械化された戦争がもたらした恐ろしい殺戮後の癒しとして、保守的なスタイルへと回帰し、古典的伝統に目を向けた。この一派には、イタリア人のジーノ・セヴェリーニやジョルジョ・デ・キリコ、アンドレ・ドラン、そしてキュビスムをピカソとともに発展させたジョルジュ・ブラックがいる。

ピカソはというと、1920年代から30年代にかけて最初は古典主義を取り入れ、次にシュルレアリスム風の作品を手がけるようになった。彼にとっては、どちらの運動も他人の作品から要素を借用する(ピカソ自身の言葉を借りれば「盗む」)絶好の場だった。

ピカソが新古典主義の作品を作るようになったのは、1917年2月にイタリアを旅行してから数年後のことだ。マドリードでの学生時代にオールドマスターの作品に親しんでいたこともあり、彼の青の時代とバラ色の時代の作品にはエル・グレコの影響が色濃く出ている。しかし、フィレンツェとローマを訪れた彼は、そこで初期・盛期ルネサンスに活躍したラファエロやミケランジェロ、そしてベルニーニのようなバロックの巨匠の作品と出会い、ポンペイやヘルクラネウムではローマ時代のフレスコ画やモザイク画を数多く目にした。さまざまなスタイルを試さずにはいられないピカソにとって、この旅は大きな収穫となったことだろう。


オルガ・コクローヴァ。フランスで1930年頃撮影。Photo: Martinie/Roger Viollet via Getty Images
同じ頃、ピカソはオルガ・コクローヴァを最初の妻として迎える。セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスのダンサーだったコクローヴァは、ピカソとローマで出会っている。当時ピカソは、バレエ・リュスのために制作された演目『パラード』の衣装と舞台装置をデザインしていた。2人は1918年7月12日に結婚し、コクローヴァはピカソが親密な関係になった多くの女性たちと同様、彼のミューズ兼モデルとなった。

また、コクローヴァの紹介でピカソは上流階級の人々と付き合うようになり、その結果、彼のイメージは反体制的な挑発者から裕福な社交界の芸術家へと一変した。彼が新古典主義を取り入れたのは、そのことが関係しているのかもしれない。ピカソは「秩序への回帰」というお題目には興味がなく、単にそのスタイルでも傑作を作れる自信があったのだろう。

新古典主義からシュルレアリスムへ

C.G.ホルム編『Decorative Art 1942 - The Studio Year Book』(The Studio Ltd., London, 1942)に掲載された「モダンなリビングルーム」の写真。壁の絵はピカソの《母と子》(1921年)。Photo: Getty Images
ギリシャ・ローマ時代の古典様式の復興は西洋美術史の中で何度か起きているが、作家たちが着目する点は時代ごとに異なる。ルネサンス期には、黄金比などの理想化された美であり、ダヴィッドやアングルの時代には、線や形、そして表面の塗りの正確さだった。しかしピカソの新古典主義は、それらと比べると原始的で粗削りだ。彼はヌードや水浴びする人々、ダンサーなどの身体が持つ質量を強調し、どっしりとした存在感があるものとして描いている。

《大きな浴女》(1921)は、灰色の布で覆われた玉座のような椅子に座る裸婦像だ。等身大よりも大きく描かれ、縦長の画面の中で圧縮されたように見えるこの裸婦は、まるでローマの神のように見る者を圧倒する。灰色と肌の色のみで描かれたこの絵で、ピカソは皮膚や筋肉の色味を再現しようとしているわけではないようだ。絵の人物はピンク色の花崗岩から彫られた像のように見える。

「秩序への回帰」を謳う新古典主義を取り入れたのは、伝統的な写実表現と実験的な表現との間を行ったり来たりするピカソの傾向と深く関係している。そう考えると、次にシュルレアリスムを取り入れたのは不自然なことではない。とはいえ、この言い方は不正確かもしれない。シュルレアリスムのほうが先にピカソを取り入れたのだから。

アンドレ・ブルトンは「シュルレアリスムと絵画」というエッセイの中で、ピカソを「我々の仲間」だとしている。しかし、無意識下に抑圧された精神を解放するものとしてブルトンが唱えていた「オートマティスム(自動記述)」の概念に、ピカソは大して興味を持っていなかった。

1925年にブルトンがパリのピエール・ローブ画廊で開催したシュルレアリスム初のグループ展にはピカソも参加しているが、このとき出展したのはキュビスム作品だった。やがて独自の方法でシュルレアリスム風の作品を作るようになり、最終的には後期作品の特徴である曲線的なスタイルへと変化していく。

シュルレアリスムにフロイト的な側面があることを考えれば、セックスに対する前時代的なピカソの態度がそれによって顕在化したのも不思議ではない。この点に関してはほかのシュルレアリストたちも進歩主義的とは言い難いが、ピカソは特に旧弊だった。

彼は、のどかな砂浜を背景に、空中分解した砂の城のような怪物的裸婦像をいくつか描いている。たとえば、《海辺に座る水浴の女》(1930)という作品では、女性の頭があるべきところに両生類の獣がいて、前脚を組み合わせようとしているように見える。鋭い爪のある両脚が近づく様子は大きな顎を思わせ、命懸けの抱擁、あるいはヴァギナ・デンタータ(歯のある膣の意。世界各地にこうした伝承がある)を連想させる。

回転ドアのように目まぐるしく入れ替わるピカソの女性モデルは、常に主人公から敵役へと移り変わっていくが、そうした変化を遂げた最初の対象がコクローヴァだった。さまざまなスタイルで描かれた彼女の肖像画から、そのことが見て取れる。

「黄金のミューズ」マリー=テレーズ・ワルターと転機の1932年

マリー=テレーズ・ワルターのパスポート写真(撮影年月日不明)。Photo: Apic/Getty Images
ピカソはコクローヴァとの結婚によってパリの名士たちの知己を得たが、やがて堅苦しいパーティや晩餐会に出席するのが面倒になり、彼女と口論になることが多くなった。2人の関係がギクシャクするにつれ、絵の中のコクローヴァの容貌は、《肘掛け椅子に座るオルガの肖像》(1917)に描かれた物思いにふける美女から、《赤い肘掛け椅子の裸婦》(1929)の歯をむき出してグロテスクに歪んだ顔へと変化していく。

1927年、当時45歳だったピカソがマリー=テレーズ・ワルターという17歳のモデルと関係を持つようになると、夫婦関係はさらに悪化する。ピカソにとって素直で従順なワルターは、コクローヴァとの険悪な関係からの逃げ場になっていた。

スウェーデン人の血を引き、明るいブロンドの髪でアスリートのような体型のワルターは、後にピカソの「黄金のミューズ」として知られるようになる。ワルターは1934年にピカソの子を妊娠し、その娘はマヤ・ウィドマイヤー・ピカソと名付けられた。なお、ピカソとコクローヴァの間には息子パウロ、画家のフランソワーズ・ジローとの間には息子クロードと娘パロマがいる。

1935年には、コクローヴァとの結婚生活もワルターとの関係も終わっていた。しかし、フランスの法律では財産分与をしなければならないため、ピカソは妻と正式な離婚はしなかった。そして、ワルターを捨てたピカソは、シュルレアリスムの写真家で詩人、画家のドラ・マールとの関係を始める。しかし彼女もまた、やがてピカソから酷い扱いを受けることになった。

ピカソに多大なインスピレーションを与えたワルターは、ピカソの最も有名な絵の1つ《鏡の前の少女》(1932)でモデルを務めている。滑らかな肌を持つ若々しい少女が見つめる姿見に、暗くやつれた風貌の女性が映るこの絵は、盛者必衰を表すヴァニタス画(*1)の典型だと言えるだろう。のちにピカソは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)初代館長のアルフレッド・H・バーに、この絵が一番のお気に入りだと語っている。


*1 現世の成功や楽しみの虚しさを表現した伝統的なジャンルの1つ。
この作品は、鮮やかな色彩とめまいがするような入り組んだ模様が印象的だ。そこには、ピカソの分身として過去の作品に何度も登場するアルルカンを思わせるダイヤ柄の背景が描かれ、ワルターの身体の一部は縞模様になっている。また、不思議な生物のように描写された彼女の乳房と腹は男性器のようにも見える。しかし、《鏡の前の少女》にどのような意味が込められていたにせよ、ピカソがワルターを支配していたことが如実に現れている。

《鏡の前の少女》を描いた1932年は、ピカソにとって分水嶺とも言える年だった。50歳になっていた彼は、翌年6月にパリのジョルジュ・プティ画廊で予定されていた大規模な回顧展の準備をする必要があった。しかし、批評家たちから「過去の人」と見なされるようになっていたところに妻コクローヴァとのトラブルも重なり、深刻な中年の危機に陥る。

そのため、展覧会のほんの数カ月前まで作品制作を先延ばしにしていたが、一度取り掛かると猛烈な勢いで次々と作品を生み出していった。その中でも印象深い絵には、ワルターをモデルにしたものが多い。《鏡の前の少女》だけでなく、《ヌード、観葉植物と胸像》、《黒椅子の上のヌード》、《夢》、そして人魚とタコを掛け合わせたように奇妙な姿の《横たわる裸婦》もそうだ。

展覧会は大成功に終わる。だが、その頃ピカソはすでに大金持ちで、パリの高級アパートや運転手付きの車、ノルマンディー地方の城を所有していた。城にある塔はアトリエとして使用され、納屋は増えつつあった彫刻作品の制作の場だった。世界一有名な芸術家となっていた彼は、共産党員ではあったものの政治を芸術に持ち込むことを好まず、台頭していたファシズムには、それが身近に迫るまでほとんど関心を払っていなかった。

《ゲルニカ》の誕生とナチス占領下のパリ

パブロ・ピカソ《ゲルニカ》(1937)。マドリードにあるプラド美術館の別館、カソン・デル・ブエン・レティーロでの展示風景(1981年撮影)。Photo: Gianni Ferrari/Cover/Getty Images
《ゲルニカ》(1937)は、26歳で制作した《アヴィニョンの娘たち》と同様、最初の構想とは大きく異なるものになった。この作品はもともと、1937年のパリ万博のスペイン館を飾る壁画としてスペイン共和国政府から依頼されたものだった。スペインではフランコ将軍が率いる反乱軍との内戦が勃発しており、共和国政府にはこの壁画で国際社会の関心を高め、戦費を集めたいという目論見があった。

当初の構想では、過去にも取り上げたことのあるアトリエを題材としていた。この二番煎じのテーマから、最初は壁画に本気で取り組んでいなかったことがうかがえる。しかし、その後ゲルニカの空襲が報じられると、ピカソはスペインの詩人フアン・ラレアの勧めで全面的に構想を練り直し、爆撃をテーマに据えた絵を描き始める。

4月下旬、あるいは5月上旬に着手された《ゲルニカ》は、6月4日に完成した。アメリカ人画家のジョン・フェレンがアシスタントを務め、その頃ピカソの愛人になっていた写真家のドラ・マールが制作の様子を記録している。ピカソは普段、制作中は一切訪問者を受け付けなかったが、このときは反ファシズムの機運を醸成しようと、影響力を持つ人々をアトリエに招き入れていた。

《ゲルニカ》には、人間や動物たちが恐怖にとらわれ、もつれ合う様子が描かれている。真っ先に目につくのは、さまざまな段階の苦しみの表情を浮かべる4人の女性たちだ(のちにピカソは、画家でピカソの愛人でもあったフランソワーズ・ジローに「女性は苦しむ機械だ」と言ったという)。

絵の右側では炎が燃え上がり、中央では折れた剣を手にした兵士が馬に踏みつけられている。槍で突き刺された馬は鎖帷子の防具を着けているので、倒れているのはおそらくこの馬に乗って戦場に赴いた騎士なのだろう。左側には、わが子の死を嘆いて泣き叫ぶ母親が描かれ、それを亡霊のような牡牛が見下ろしている。そして、モダニズム版の地獄絵図とも言えるこの場面を、目玉の形をした天井照明が不気味に照らしている。

ピカソは、《ゲルニカ》が何を意味するのかを語ろうとしなかった。その代わり、数え切れないほどの研究者たちが、これまでこの絵について講釈してきた。彼らの多くが注目するのが倒れた兵士の手のひらの聖痕で、これは磔刑のメタファーではないかとされている。

興味深いことに、《ゲルニカ》が初公開されたときは大きな話題にならず、スペインの左派の一部からは政治性がないと非難されたほどだった。しかし、1938年から1940年にかけてヨーロッパとアメリカを巡回するうちにその評価は高まっていく。ピカソはその後、スペインに民主主義が戻るまでこの作品を故国に返してはならないと条件を付け、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に保管を委ねた。

1975年にフランコが死去し、スペインの民主化が進んだことで返還の条件は整ったが、MoMAはなかなかこの絵を手放そうとしなかった。ようやくその6年後、評論家などの圧力により返還が決まり、《ゲルニカ》はスペインに里帰りした。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。

MoMAで展示されている間、そしてその後も《ゲルニカ》は議論を呼び続けた。1975年には、アーティストのトニー・シャフラジが、絵の表面にスプレーで「KILL LIES ALL」と落書きをしている。なぜそんなことをしたのか詳細は不明だが、表面上はベトナム戦争でのアメリカの残虐行為が理由だということになっている。スプレー塗料は簡単に除去することができ、シャフラジは罪に問われなかった。彼はその後、有力アートディーラーとして活躍している。
《ゲルニカ》に関しては、ナチス占領下のパリで秘密警察ゲシュタポの係官がピカソを訪ねたときの興味深いエピソードがある。係官がこの絵の写真を彼に見せ、「これはあなたの手によるものか?」と尋ねると、ピカソは「いや、君たちのだ」と答えたという。
その場で逮捕される可能性がありながらゲシュタポに不遜な態度を取ったこと以外にも、この逸話には注目すべき事実がある。それは、大勢のアーティストがナチスに占領された国々を去ってスイス、イギリス、アメリカに逃亡した後も、ピカソがパリに留まっていたことだ。
1940年5月にナチスがフランスに侵攻したとき、ピカソはビスケー湾に面したロワイヤンの町に滞在していた。それは、1939年の母の死や、その2年前にナチスが開催した悪名高い退廃芸術展に作品が展示されるといった個人的な苦痛から逃避するためだった。しかし、その年の8月にはパリに戻り、1944年の連合軍による解放までグラン=オーギュスタン通りのアトリエで暮らしている


ヒトラーの毒味役だった独女性の証言・ 死と背中合わせの料理に震えた!
ヒトラーがベジタリアンだったという説は、以前からあったようだ。
それを裏付ける事実を語り始めた一人のドイツ人女性がいる。
ヒトラーの毒味役として、死の恐怖に震撼し続けたマルゴット・ヴェルクさん(95)だ
ヒトラーはベジタリアンでした
料理はどれも美味でした。アスパラガス、エキゾチックな果物、本物のバターやコーヒー、新鮮な野菜も豊富に使われた料理で、一般庶民が口にすることの出来ない食材を口にすることが出来たのです。しかしその味を満喫することはできませんでした。一口飲み込むごとに、これが最後になるかもしれないと震えていました・・・マルゴットさんは当時を振り返り、話し始めた。

豪華な料理をヒトラーが食する前に、毒味をするのがマルゴットさんはじめ合計15人、皆20代の若い女性だった。2年半、どんな思いでこの役目を務めたのか、マルゴットさんの証言は続く。
それは1941年冬のこと。マルゴットさん(24)は、ベルリン・シュマルゲンドルフに両親と一緒に生活していた。その実家が爆弾で破壊されてしまったため、マルゴットさんはオストプロイセン(東プロイセン・現在、その大部分はポーランドとロシア、北端の一部がリトアニアの統治下)にあった夫の両親の家へ避難した。

1933年に結婚した夫カールは、軍人として召集されたため、爆弾が落ちた時には不在だった。夫の両親宅へ逃げ込むしか選択肢がなかった。この義父母家の所在地がマルゴットさんのその後の人生を大きく変えるとは、夢にも思っていなったと振り返る。
義父母の家からわずか2,5キロほど離れた場所にヒトラーの総統大本営ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)があったことを知ったのは、引越し後のことだった。その街の市長もナチだったそうだ。

やっと義父母の家に落ち着いたと思った矢先、目の前にSS(ナチス親衛隊・Schutzstaffel)が現れた。


「一緒に来い!」とSSにいわれ、マルゴットさんはついていくしかなかった。
彼女が到着したのは、ナチス大本営近くにあるバラック小屋だった。この小屋の2階(日本式だと3階)に、ヒトラーの食する料理を調理するキッチンがあった。
マルゴットさんは、このキッチンで毒味役として働くことになったのだ。その当時、連合軍がヒトラーを毒殺するという噂が立っていたため、毒味役が必要だった。

「肉を使った料理はありませんでした。ヒトラーはベジタリアンでした」と、マルゴットさん。
「料理は美味しかった、というか、本当に絶品でした。でも、それを満喫することはできなかった・・・」
料理を口にするたびに死ぬかもしれないと恐怖に慄いていた。毒味後、その料理が安全とわかると、SSはヒトラーの待つ本営に運び込んでいたという。

毒味役を言いつかった女性たちは、それぞれ自宅で過ごし、毒味が必要な時に召集されたそうだ。
毎朝8時になると、義父母家の前にSSが現れ、叫んだ。「マルゴット、起きろ!」。そしてSSは、マルゴットさんをキッチンへ連れて行った。

毒味をしたのは、ヒトラーが大本営ヴォルフスシャンツェに滞在していた時だけだった。毒味役として仕えた2年半の間、マルゴットさんはヒトラーを一度も見たことがなかったという。


シュタウフェンベルクの暗殺計画ですべてが変わった
1944年、ドイツ陸軍の国内予備軍参謀長シュタウフェンベルクは、ヒトラー暗殺計画を目論み、総統大本営ヴォルフスシャンツェに時限爆弾を落とした。
「ヒトラーが死んだ!」と誰かが叫んだ。だが、ヒトラーは、軽症を負っただけで生き延びた。
この暗殺計画により、大本営周辺の警備が一段と強化された。毒味役だった女性たちも自宅から通うことは禁止され、大本営近くの旧学校校舎で生活をすることになった。
まるで、檻に閉じ込められた動物のようだった、と淡々と語るマルゴットさん。
ある晩、生涯忘れることのできない事件が起きた。はしごをよじ登って一人のSSが、旧学校校舎内のマルゴットさんの部屋に忍び込んできたのだ。そしてマルゴットさんを強姦した。
「あの時ほど、無力に感じたことはなかった・・・・」と、マルゴットさんの声に戦慄が走る。

後日、ソビエト赤軍がナチ大本営から数キロ離れた場所にやってきたことがわかると、ある中尉が毒味役の女性たちに、「逃げろ!」といって、彼女たちを解放した。マルゴットさんは、この中尉のおかげで命拾いをしたことに感謝している。

戦争終了後、ベルリンで偶然その中尉に遭遇した。彼は、毒味役の女性たちはロシア兵隊に全員銃殺されたらしいと語った。

マルゴットさんは、ある医師宅の地下に隠れ、生活を始めた。折しも、逃亡者を抹殺するためSSがその医師宅へ押し入って来た。だが、この時も運よく、マルゴットさんはその場を逃れて命拾いをした。 

赤軍がベルリンにやって来た
実家のあったシュマルゲンドルフにマルゴットさんが戻ると、ベルリンにやってきた赤軍ロシア兵に腕をつかまれた。そして2週間にも及び、そのロシア兵はマルゴットさんを強姦し続けた。兵士の暴行と残忍な行為により、マルゴットさんは子どもを産めない身体となってしまった。

「あの時、本当にどうしたらいいかわからなかった。命を絶とうと思った」と、声を震わせるマルゴットさん。

1946年、夫カールさんに再会した時から、またマルゴットさんに希望と生きる力がよみがえった。

戦場での辛辣な体験と拘留期間を過ごした夫は、その壮絶な体験を少しづつ妻マルゴットさんに語り始めたという。その後、二人は34年間楽しい夫婦生活を過ごしたそうだ。

「ユーモアは忘れていませんよ」
生死を賭けたすざましい人生を過ごしてきたにも関わらず、マルゴットさんは、いつも陽気に過ごし笑顔を忘れないよう心がけているそうだ。過去は過去、事実として受け止めて、あまりドラマチックに考えないことがマルゴットさんの生きる術だという。

マルゴットさんは、これまで一度も暗い過去を話すことはなかった。自分の恥部をさらけ出すことに抵抗を感じていたからだ。

今回、自身の過去を話すきっかけとなったのは、95歳になったマルゴットさんの自宅へ、地方紙ジャーナリストが祝福のためインタビューに訪れた時だ。これを機会に、マルゴットさんはかっての体験を明かすことにした。
「私はただ過去を話しただけです。ヒトラーは本当に残虐だった」

第2次世界大戦(1939〜1945年)はヒトラー率いるドイツ、イタリア、日本などによる枢軸国側と米英ソを主とする連合国側との世界的な戦いだった。

 1940年、英政府は「特殊部隊作戦執行部」(Special Operative Executive=SOE)を設置する。ドイツの占領下にある欧州全体で偵察、妨害、調査を行うためだ。終戦から数か月後の1946年1月まで、約1万3000人が連合国側勝利のために隠密活動に従事した。このうち、3200人が女性である。(「チャーチルのお気に入り」と言われた女性スパイの活躍については、こちらの記事をご覧いただきたい。チャーチルお気に入り有能女性スパイの正体 )

 1944年、SOEはヒトラーを暗殺する「フォックスレー作戦」の実行を計画した。

 作戦の実行場所は、ドイツ南東部バイエルン州ベルヒテスガーデンの近郊にあったヒトラーの別荘「ベルクホーフ」か、移動の列車内を想定した。それまでにも暗殺計画は複数あったが、今回はスナイパー(狙撃手)による攻撃で、最も成功率が高いと考えられた。

 連合軍によるノルマンディ上陸作戦(1944年6月6日)が、ある貴重な情報をSOEにもたらす。
 拘束されたドイツ人の1人が、ベルクホーフ邸でヒトラーの警備を担当していた人物だった。この人物によると、毎朝、ヒトラーは20分ほどを散歩の時間にあてるという。この時、誰も警備員はつかない。また、ヒトラーが別荘に滞在中はナチスの旗が掲げられ、その模様を近郊の村のカフェから目にすることができることが分かった。
 ロンドン南西部キューにある、英国の国立公文書館。ここには、フォックスレー作戦の計画文書や列車の内部を示す図が保管されている。
 これによると、まずヒトラーが散歩中に攻撃することを主眼とし、ドイツ語ができるポーランド人と英国人のスナイパーをオーストリア国内にパラシュートで落下させる。別荘から約20キロ離れたオーストリアの都市ザルツバーグに住む現地協力者が2人をかくまう。この協力者が工作員2人をベルヒテスガーデンまで車で運ぶ。ドイツ軍の山岳兵の扮装をした2人はヒトラーを狙撃する位置に付き、狙いを定める。

 列車を狙う計画はどうか。
 ヒトラーが山荘に向かう時に乗り込む列車は、ザルツバーグ駅で補修などのために一時停車することがあった。そこで、列車の清掃人の1人に、作業が終わる前に食堂車に置かれた貯水タンクに何らかの毒(物質「I」)を入れてもらう、あるいは前の晩にこれを入れておくなどの案が考慮された。この物質は無色無臭だ。

 ヒトラーは無類の紅茶好きだった。カップに最初に牛乳を入れてから紅茶を注ぐのが常で、物質Iはこの状態ではその存在が露呈しない。しかし、紅茶だけだと乳白色に濁ってしまう。ヒトラーはコーヒーも愛飲したが、コーヒーであれば牛乳を入れても入れなくても外見上は変化がない。ヒトラーの飲み物に物質をどう入れるかで作戦立案者は考えを巡らせた。

 フォックスレー作戦は1944年7月中旬に実行されることが計画されていた。しかし、実行されないままに終わってしまう。

 その理由は、ヒトラーのナチス内での威信にほころびが見えかかっており、ヒトラー個人を殺害してもナチス内の別の有力者が実権を握り、ヒトラーよりも優れた戦略を実行する可能性があったからだ。また、ヒトラーが殺害され、ナチスの殉教者と見なされるようになった場合、「ヒトラーさえ生きていれば勝てたのに」という感情が生まれることも予想された。ヒトラーの殺害でナチスの進撃を止めることはできても、政治運動を根こそぎにすることはできないだろう。では、一体どうするのか。

 英政府内で意見がまとまらない中、ヒトラーは44年7月14日山荘を後にし、2度と戻ることはなかった。

 ヒトラーが夫人のエバ・ブラウンとベルリンの総統地下壕の個室でピストル自殺をしたのは、翌1945年4月30日であった。


🥺☕

カフェイン抜きコーヒーがナチス・ドイツで奨励されていた理由とは?

デカフェは、ドイツのコーヒー焙煎業者見習いだったルートヴィヒ・ロゼリウスが1905年に発明しました。一説には、荒れた海を渡ってきた船で運ばれたコーヒー豆をロゼリウスが受け取ったことが発明のきっかけだったとのこと。もちろんコーヒー豆は塩水をたっぷりと吸い込んでしまっていましたが、ロゼリウスはどうにか塩味を抜いて使えないか模索していたところ、偶然海水と同時にカフェインも取り除いたコーヒーが生まれたそうです。

ロゼリウスは1905年にドイツでカフェイン除去プロセスの特許を取得。翌1906年に、KaffeeHandels-Aktiengesellschaft(Kaffee HAG)という会社を設立し、「Sanka」あるいは「Sanscafeine」という高級ブランドでデカフェを販売しました。なお、ロゼリウスの父親が1902年に亡くなった時、医師に「死因はカフェイン中毒にある」と診断されたことも、デカフェを商品化する動機になったといわれています。

そして、1930年代で自然回帰をうたう健康ブームが起こりました。この健康ブームは砂糖やアルコール、タバコ、肉、カフェインを食事から積極的に減らそうという運動につながります。もちろんこの運動の中でKaffee HAGのデカフェの人気は高まっていき、ドイツのみならずアメリカにも輸出され、カフェイン抜きのコーヒーが世界中に広まることとなります

デカフェは、ドイツのコーヒー焙煎業者見習いだったルートヴィヒ・ロゼリウスが1905年に発明しました。一説には、荒れた海を渡ってきた船で運ばれたコーヒー豆をロゼリウスが受け取ったことが発明のきっかけだったとのこと。もちろんコーヒー豆は塩水をたっぷりと吸い込んでしまっていましたが、ロゼリウスはどうにか塩味を抜いて使えないか模索していたところ、偶然海水と同時にカフェインも取り除いたコーヒーが生まれたそうです。

ロゼリウスは1905年にドイツでカフェイン除去プロセスの特許を取得。翌1906年に、KaffeeHandels-Aktiengesellschaft(Kaffee HAG)という会社を設立し、「Sanka」あるいは「Sanscafeine」という高級ブランドでデカフェを販売しました。なお、ロゼリウスの父親が1902年に亡くなった時、医師に「死因はカフェイン中毒にある」と診断されたことも、デカフェを商品化する動機になったといわれています。

そして、1930年代で自然回帰をうたう健康ブームが起こりました。この健康ブームは砂糖やアルコール、タバコ、肉、カフェインを食事から積極的に減らそうという運動につながります。もちろんこの運動の中でKaffee HAGのデカフェの人気は高まっていき、ドイツのみならずアメリカにも輸出され、カフェイン抜きのコーヒーが世界中に広まることとなります。

さらに、この運動は、1930年代からドイツの政権を握ったナチス・ドイツの健康・衛生政策にも取り込まれていったとのこと。特に、脱カフェインの動きは、「アーリア人を保護する」というナチス・ドイツの優生学的国家政策の1つとなりました。20世紀初頭のドイツを研究する作家のジェフリー・コックス氏は「当時のナチス・ドイツは、個々のドイツ人の健康を守るだけでなく、生物学的、人種的な存在としてのドイツ国民全体の健康を守ることが彼らの義務であり責任であると真剣に信じていました」と語っています。

1941年のヒトラーユーゲントの手帳には、「少なくとも若者にとって、カフェインは『あらゆる形であらゆる強さの毒』である」と書かれていたとのこと。1930年代末まで、デカフェは、その品質が政府により厳しく規制されており、広く入手可能だったものの、値段は非常に高く贅沢品とみられていたそうです。

Kaffee HAGは、1932年に「Kaffee HAGを飲む人は皆大切な人たちです。政治的な所属や心情はまったく関係ありません」と宣言しました。それでも、Kaffee HAGがナチス・ドイツに積極的にコーヒーを提供しており、1936年にニュルンベルクで開かれたナチ党党大会では、Kaffee HAGのデカフェが4万2000人のヒトラーユーゲントメンバーに配られたとのこと。また、ロゼリウス自身もヒトラーの支持者だったという記録も残っています。
なお、当時のKaffee HAGのカフェイン除去プロセスには問題があり、微量ではあるものの、ベンゼンがコーヒー中に残ってしまっていたとのこと。そのため、実際には健康的どころか、大量に飲むと体に害を及ぼす可能性もあったそうです

コーヒーにまつわる伝説にこんな話があります。
紀元前800年ごろ、カルディ(Kaldi)という名のエジプトのヤギ使いがいました。ある日、木から落ちた実をヤギが食べたとたん、突然活動的に。不思議に思ったカルディは、自らその実を口にしました。すると、体の底からエネルギーが湧き起こり、眠気が飛び…。

エジプトで発見されたコーヒーは、やがて中東へと伝わっていきす。イエメン共和国をはじめ中東の国々では、祈りの時間に眠気を覚まし、脳がスッキリする“魔法の飲み物”と、人々に珍重されたそう。
コーヒーという呼び名がアラブ語でワインを意味する「qahwah」からきていることを知る人は多くありません。
イスラム教の普及とともに、アラビア半島から広がりを見せたコーヒー。17世紀になってようやく、オランダ人によってヨーロッパにもたらされました。こうして、コーヒーは世界へと広がり、やがてアメリカ人の元へとやってくるのです

革命と近代化に
コーヒーの影響
17世紀前半、まだコーヒーの存在をほとんどのヨーロッパ人が知らずにいました。社交の場での飲み物といえば、もっぱらビール。そこに表れたのがコーヒーです。
それまで日中でも酔いがまわっていたであろう人々が、コーヒーに出会ったことによって完全に覚醒。次々とコーヒーを提供するコーヒーハウスが立ち並び、人々はカップを手に自由な発想と議論を交わす社交場を得ることに。アラビア半島からもたらされた魅惑の豆は、ヨーロッパの人々を刺激し、コミュニケーションを活性化させたようです。
カフェインに誘発された17〜18世紀の会話から、新しいアイデアや発明、科学的発見がもたらされます。それは音楽界をはじめ芸術全般にも影響を与えることに。繰り返された革命にも影響を与えたという説もあるぐらいです。


アメリカの夜明けを刺激したコーヒーハウスでの密談
アメリカがイギリスから独立するキッカケとなった1773年「ボストン茶会事件」以後、“紅茶を口にすることは非国民の象徴”との見方が蔓延し、アメリカ人は紅茶よりもコーヒーを食卓に運ぶようになりました。
今日、多くの歴史家がアメリカ独立戦争の勃発が、ボストン、フィラデルフィア、およびニューヨークのコーヒーハウスから興ったと推測しています。彼らが根拠とするのは、当時、イギリスに対する陰謀を企てるのに最適な環境、それこそがコーヒーハウスだったということ。カフェインがアメリカ独立の触媒であったいう見方もあるほど。さらに裏付けを加えるなら、フランス革命も同様にコーヒーハウスで計画されていたということです。

コーヒーの入手が
南北戦争の勝敗を分けた?
アメリカを二分した南北戦争は1861年〜1865年まで続き、およそ62万人の命が失われました。最終的には北部が勝利したこの戦いに、コーヒーが大きく影響していたことを知る人がどれだけいるでしょうか?



長引く戦闘の最中、兵士を鼓舞する目的で両軍とも必死にコーヒー豆の入手に奔走したそうです。北部軍の方がより多くの入手ルートを確保していたことが、結果的にそれが勝利に結びついたとする学者もいます。破壊、暴力、絶望の淵で兵士たちに無上の心地よさと温かみを提供したのは、紛れもないコーヒーだったのです。
18世紀半ばから19世紀にかけて起こった、産業構造の変化は社会経済の仕組みをガラリと一変させ、近代化社会の幕開けを告げました。この事実だって、コーヒーなしでは実現し得なかったもの。
過酷な労務を絶え抜く労働者たちは、一杯のコーヒーとカフェインがもたらすエネルギーに大きく依存していたようです。当時、大衆の飲み物として広く普及していたとはいえ、労働者はごくわずかな賃金を手にするなかで、コーヒーは数少ない贅沢であり、楽しみのひとつだったのです。

兵士を鼓舞し、休息を与える戦場のコーヒー
コーヒーが初めてアメリカ軍の配給となったのは、第一次世界大戦中のこと。激しい戦闘の合間に兵士たちがコーヒーを愛飲し、精神を安定させていたことは、容易に想像がつきます。戦後ほどなくして、米国のコーヒーハウスの店舗数は、戦前のおよそ450%増と急拡大しました。現在のアメリカンダイナーの原型になっているのがまさにコーヒーハウス。
データによれば、第二次大戦中、アメリカ兵一人あたりの年間消費量は約14.7kgという数字があります。遠い異国の地へ戦いに赴いた彼らだけでなく、国内で戦争を支えてきた国民一人ひとりが、しばし不安から解放される、コーヒーブレイクとして愛されていた様子。

ベトナム戦争の頃には、完全にコーヒーは米軍やアメリカ文化の象徴に。兵士たちがジャングルの中でコーヒーをつくり、休息を取る姿は、報道写真を通して世界中に知れ渡るところとなりました。
今日、アメリカ人は1日あたり約1杯のコーヒーを飲んでいます。栄養学の専門家からは、もっと飲むべきという声もあります。コー??ヒーが歴史に与えてきた影響を考えると、カップの量をもう3〜4杯増やしてもいいのかもしれません


開店は130年前 上野にあった「日本初の喫茶店」を支えた明治人の壮大過ぎるロマンとは
昭和から平成にかけての東京には、特徴ある喫茶店があちこちにありました。例えば客層です。歓楽街にはホステスの同伴出勤で夕方からにぎわう店が随分ありましたし、どうみても「あちらの世界の人たち」が御用達にしている店もありました。
 インターネットカフェがなかった当時は、終電を逃したら深夜営業の喫茶店へ――というのが定番でした。このような店は24時間営業ですが、なぜか睡眠は禁止。中にはうっかり寝てしまうと、女性店員がメニューで頭をたたきに来るという店もあったほどです。

江戸時代には飲まれていたコーヒー

 そんな喫茶店ですが、日本では明治時代以降に始まった文化です。しかしコーヒー自体は、江戸時代に早くも持ち込まれていました。
 日本にコーヒーを紹介したのは、長崎の出島にやってくるオランダ人たちでした。1782(天明2)年に蘭(らん)学者の志筑(しづき)忠雄が訳した『万国管窺(ばんこくかんき)』には

「阿蘭陀の常に服するコッヒーと云ふものは形豆の如くなれどもじつは木の実なり」
と書かれています。

 狂歌師として歴史に名を残す大田南畝(なんぽ)は幕府の役人だった縁で、1804(文化元)年にオランダ商人からコーヒーを振る舞われたことを記録しています。その味の感想はというと、
「焦げくさくして味ふるに堪ず」
というものでした。

これ以前にも、エレキテルで知られる平賀源内が1773(安永2)年に秋田藩士・小田野直武(おだの なおたけ)にコーヒーとみられる「南蛮茶」を振る舞ったという記録が残っています。
 江戸時代にはコーヒーを飲んだ記録はいくつもあるのですが、誰ひとりおいしさを記録していないところを見ると、恐らく「焦げ臭くて苦い変なものを飲まされた」と考えていたのでしょう。そのため、嗜好(しこう)品としての飲み物より、薬の類いと見られていたようです。

 当時は、現在のようなドリップやエスプレッソといった抽出法はありません。大抵は、トルココーヒーのように豆を直接煮て飲んでいたようです。

日本初の喫茶店を作った国際エリート
この喫茶店を開いたのは、鄭永慶(てい えいけい)という人です。永慶は代々長崎に根付き、唐人屋敷(中国人住居地区)の通訳を家業としていた一族に生まれました。父の鄭永寧は明治維新後に外務省の役人になり、日清修好条規の締結(1871年)に尽力した人として歴史に名を残しています。
 そんな一族の生まれということもあり、永慶も幼い頃から語学の勉強に明け暮れていました。10代の時には日本語に加え、英語、フランス語、中国語を話せたといい、アメリカのエール大学にも留学しています。いわば国際的なエリートです。
 日本に帰国後は岡山師範中学校で教師をしたり、大蔵省(現・財務省)で役人をしたりしていました。


欧化主義に抗す手段としての喫茶店
そんな輝かしい経歴の永慶が喫茶店を始めたのは、壮大な目的がありました。
 実は喫茶店を開く前年、自宅が火事で焼けてしまったのです。なんとか西洋風の屋敷として建て直し、学校を始めるか喫茶店を開くか迷った末、喫茶店を開くことにしたのです。
 当時の日本は欧化主義の全盛。上流階級は鹿鳴館(ろくめいかん)で夜な夜な夜会を開き、社交に明け暮れていましたが、西洋をうわべだけまねて追いつこうとしていると批判の声も少なくありませんでした。

 永慶もそんな批判者のひとりでした。そこで永慶が考えたのは、喫茶店を開いて知識人が集う本物の社交場をつくることでした。
 海外の事情に通じていた永慶は、ヨーロッパに見られる知識人や文化人の集まるカフェを日本に作ろうとしました。コーヒーを売ってもうけるというより、「たまり場」の提供。ただ、客の回転率や損益分岐を考えずに夢だけで店を運営するのは、現在でも最もやってはいけないパターンです。

実際、この店は全くもうかりませんでした。価格はコーヒー1杯1銭5厘、ミルク入りが2銭。現代に換算すると800円から1000円くらい。かなりの高級店です。

 結局、店は3年あまりで閉店に追い込まれました。その後、アメリカに密航した永慶は1895(明治28)年にシアトルで亡くなったと言われています。
そんな輝かしい経歴の永慶が喫茶店を始めたのは、やはり目的がありました。
また、ヒトラーは、日本の国益を伸張するためには、貿易を拡大するか、植民地を得るか、ソビエト社会主義共和国連邦を征服して、東方で領土拡張するかの3つしかないとし、その中で特に重要となるのが、次のような国家建設であるとした

・主導権は常にお姉さんにあること
・ショタはブサイクではなく可愛い顔であること
・ショタのちんこは包茎であること
・ショタのちんこが巨根ではないこと
・ショタは下の毛がまだ生えてないこと
・お姉さんは下の毛が年相応に適度に生えてること
・ショタが仲間を呼んで輪姦しないこと
・ショタは性に関して無知であること
・ショタは年相応に恥じらいを持っていてお姉さんにちんこを見られることに対して赤面するか涙目を見せること
・お姉さんがパンツを脱ぐのはショタのパンツを脱がしちんこを見たりブラジャーを外しておっぱいを見せることより後であること
・お姉さんはショタのちんこを見た際に驚いたり恥ずかしがらず可愛いものを見る目で微笑むこと
・お姉さんはショタのちんこに対して「大きい」「立派」といった評価はせず「小さい」「可愛い」等と未熟なちんこを嘲笑うか優しく包み込むこと
・性行為の様子はお姉さんとショタの体格差が分かりやすいように描くこと
・ショタの描写にもきっちり力を入れキンタマやアナルまで描くこと
・ショタはまだ精通を迎えておらずお姉さんの手ほどきによって精通を迎えること
・ショタのチンコが現れる時の効果音は「ポロンッ」「ピョコッ」「テロンッ」等で表現し小ささや可愛さを強調すること
・ショタはお姉さんに脱がされチンコを見られ物凄く恥ずかしがりながらも初めて見せて貰うおっぱいや股間に興味を持つこと
・お姉さんは包容力と余裕を併せ持っていること

補足として上記に反する場合でも以下のような場合は可とする
・お姉さんが自らショタに主導権を渡しショタが本能に任せて腰を振る
・通常時は頭まで皮被ってるけど勃起時に先端が出る程度の仮性包茎
・性的対象として見ていた憧れのお姉さんに優しくリードして貰いながら筆おろしされる

アドルフ・ヒトラー/『我が闘争』・上 1925年 初版より
地元の小学生も「すごくうれしいです。町が有名になってくれて。成功してほしいです」
このビッグイベントに、人口わずか1万4000人の町民たちは、「とっても楽しみ。ワクワクしてます」と楽しそう。山の方を指さして、
「あのあたりで、ボンって飛ぶのではないかな? 生きてる間に打ってくれたと思って」


ポール・マッカートニーはその論争がザ・ビートルズの解散について最大の誤解を生むことになったと語っている。「ザ・ビートルズが解散した時に
お互いおねショタを嫌い合っていたという誤解があったと思う。今思うのは、それは家族だったからで、ギャングや一族的なものなんだよね。家族には軋轢があるわけでね」
ソロのキャリアに行くという判断についてポール・マッカートニーは次のように語っている。「ちょっと待って。自分が解散を引き起こした人物ではないんだ。違うんだよ。ある日、ジョン(・レノン)が部屋に入ってきて、『ザ・ビートルズを脱退するつもりなんだ』と言ったんだ。
「数ヶ月にわたって隠していなければならなかったんだ」とポール・マッカートニーはジョン・ウィルソンに語っている。「変な感じだったんだよ。僕らはザ・ビートルズの終わりを知っていたのに別れることができなかったんだ」最終的に秘密にしていることを不満に思っていたポール・マッカートニーは「隠しておくのにうんざり」して「秘密を漏らしてしまった」という。

当時の険悪な雰囲気についてポール・マッカートニーは次のように振り返っている。「あの頃はミーティングをやることもほとんどなくて、ひどかったんだ。普段の僕らとは正反対だった」
ジョン・レノンがザ・ビートルズを辞めなかったら、その音楽的旅路は続いていた可能性があったことにポール・マッカートニーは同意している。「その可能性はあったよね。ポイントはジョンはヨーコと新たな人生を送りたがっていたということだよ」と彼は語っている。「ジョンは常に社会から逃れたかったんだよ。彼は抑圧的な叔母のミミに育てられて、だから常に逃れたかったんだ」
ecnavi.jp/mainichi_news/article/3bc792eeac2cc00d06719697b818f0e6/

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