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日本史学習スレinイヒケー

19 レス · dat原文

需要がありそうなのでとりとり
なぜ鎌倉北条氏にだけ得宗家のような概念が存在したのですか? 藤原氏には御堂流といった概念もありましたがほかの武家にはそのような概念はあまりなかったので気になりました
皇極天皇と孝謙天皇が重祚できたのはなぜか
>>2 北条家は血筋を重んじる家だったからではないでしょうか 庶家や親戚などの姫と婚姻を結んでいましたし >>3 実現したというよりは実現させただと思います 皇極天皇は天皇家(特に中大兄皇子)の政治的思惑によって、孝謙天皇は淳仁天皇とのいざこざによって 当職はそんなに知識があるわけではないので間違ってたらスマソ
今の皇室が北朝由来なのに南朝が正史とされているのは水戸学のせい?
>>5 聞いた話だとそもそも天皇の証たる三種の神器が南朝にあったからだそうです
「貴様」「御前」は何故敬称から暴言になってしまったのでしょうか?
>>7 元々武士が文書の中で敬称として使っていましたが 江戸時代に入って庶民の識字率が上がったというのと武士の権威が 徐々に下がっていたので武士をバカにする意味合いで庶民が使って行って 罵倒語に転嫁していったからです
>8出会いに感謝 源頼朝は暗殺されたのでしょうか
>>9 正直な所、よく分かっていません。死んだ日は様々な史料に書かれているので 確実ですが死因に関しては確実な記録が残っていないので複数の説があります。 暗殺の可能性も0では無いでしょうが暗殺説は当時の史料に記載が無く 頼朝が武士というより政治家タイプなので武勲を立てるエピソードが目立たずに 義経比べて不人気な部分がありヒールとしてのイメージを付けるために悲惨な死に方を書き加えた後年の創作であると考えが自然です。
なぜ日本の陽明学は政治と結びついたのでしょうか
近衛家や鷹司家の名前の由来は何ですか?
>>11 乱暴な言い方をすると陽明学は正しい考えの下、良いと思った思った事を実行するのを良しと学問です。 ところがこの「正しい考え」というのがクセモノで都合良く拡大解釈される事が結構ありました。 明治になって欧化が進んだ結果江戸時代の武士道や日本らしさを「正しい考え」として 陽明学的なノリでナショナリズムを取り戻そうとする考え方が芽生えました。 ソコを起点として日清戦争や日露戦争の時期に世論がナショナリズムに 熱狂する様になっていって政治に陽明学の要素が介入してきたと考えます。 >>12 近衛家は藤原家実が祖ですが夭折したので息子の藤原基通が自身の邸宅を近衛邸と呼んだ事から近衛家と呼ぶ様になりました。 鷹司家はその孫の近衛兼平が鷹司小路に邸宅を建てていたのでそう呼ばれる様になりました。五摂家は京都で住んでいた邸宅と地番が由来になります
>>13 デカン 藤原氏の子孫はたいてい苗字がかっこいいから気になってました
千利休や松尾芭蕉が忍者だったと言う説は本当でしょうか
>>15 伊賀出身で藤堂家に仕えていた事だったりおくのほそ道の移動スピードが 年齢の割に速いので忍者だったというのが主説として出ます。 元々芭蕉は出自が農民なので仕えていたというより雑用係だったと言われています。また当時の旅人は普通に1日40kmくらいは歩くので芭蕉の移動距離に そこまでの違和感はありません。おまけにおくのほそ道は旅を終えた後で 手直しされたので記憶違いの部分がある可能性も否定できません。 同行していた曾良の日記と比べるとかなり違いがあるのでそのラグも 忍者説を加速させた可能性があります。 千利休に関しては生涯に不透明な部分があるので忍者として 活動していたとこじ付けるのは可能ですが記録がない為あまり期待できないです。私もこの時代はあまり詳しく無いので何ともですが大名の一定の支持が ある茶人という事から忍者というよりはフィクサーに近い立場だったと 考えたほうがまだ理屈として通ります。
なぜ薩摩藩が進攻したとき琉球王国はあまり抵抗しなかったのでしょうか
>>107 薩摩藩の侵攻まで100年間琉球王国では大規模な戦闘が無かった為軍備に大きな差があった為です
http://takahiro.batcave.net/test/read.cgi/inamurajunichi/1611642208 イヒケー避難所日本史スレ