唐澤家&河野家先祖調査路線 (1001)

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682 無名弁護士 2017/11/30(木) 23:35:36.35 ID:TCvDrVdQ0

http://xwin2.typepad.jp/xwin2weblog/2012/11/index.html
本書86〜87ページ
「こうした渋沢の構想をどこかで聞きつけたのか、一九一五年三月、東京府下荏原郡の地主有志数名が、王子飛鳥山の渋沢邸を訪ね、荏原郡一円の開発計画を説明して、その実施を渋沢に依頼したという。
そういうこともあったので、渋沢としては田園都市の実現に当たって田園調布にも優先する形で洗足の開発を進めたのかも知れない。」

最初の一文は「街づくり五十年」(東急不動産)からの引用とし、「こうした渋沢の構想」とは田園都市設立趣意書より以前のものを指す。
ここには、なぜ荏原郡の地主が渋沢邸を訪れたのかが曖昧になっているが、実はここが最も重要なところで、畑弥右衛門という渋沢と荏原郡有志(皆、村長クラス)を結びつけた存在を忘れてはならない。
この人物がなければ、おそらく田園都市がこのエリアに展開したかどうかすらはっきりしなかった。
また、開発計画といっても具体性に乏しく、畑弥右衛門の青写真(大風呂敷)を文章で示したに過ぎない。
とはいえ、これをきっかけに有力地主と結びついた意義は大きく、田園都市計画が具体化するに従って事業用地買収に多大な寄与をしたことは疑いのない事実である。

https://sonshi.xyz/wiki/?curid=6797
村井が独立する前、属していた三協商会は店主が萩原六三郎といい、府下荏原郡の大地主で資金力は相当のものだったという。


・一三が、平田智惠人の平田百貨店に関わったのは同じ広島県出身だからか?

・村井啓助の属していた三協商会の上司、萩原六三郎は荏原郡の大地主だった
 →畑弥右衛門は田園都市会社の事業にあたり、用地買収の為に荏原郡の地主たちを集めて説得

・内地での平田智惠人は牛込に居を構えていた
・一三が、光次と同じ京城龍山で事業をしていた村井啓助の妹娶る
 →内地帰国後の光次が牛込に居を構えたのは、一三の上司・平田智惠人を頼ったからか?