【東京都板橋区高島平3-11-5-802/TEL:080-5005-5499】高橋嘉之★72【法律神(37)/ジョーカーだ/お手紙開示】 (1001)

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511 島田 真樹(小平市花小金井3-5-27) (sage) 2019/03/16(土) 11:08:14.09 ID:um2hkqkj0


4,「パパ ママ バイバイ」・裕一郎君と康弘ちゃんの死 
 火炎が広がり、黒煙がきのこ雲のように立ち上るなか、付近で仕事をしていた宅地造成工事現場の人達による必死の被災者救出活動が行われ、民間人の通報で救急車が到着2人の幼児を含む9人の重軽傷者が病院に運ばれました。
青葉台病院に収容された林裕一郎君(昭和49年8月24日生まれ・当時3歳)と、弟の康弘ちやん(昭和51年3月28日生まれ・当時1歳)は、全身大やけどを負い包帯でぐるぐる巻きにされ「水をちょうだい、ジュースジュース‥‥」と
叫びましたが、容体が悪化するので水もジュースも飲ませてもらえませんでした。
 そして、この日の深夜‥‥‥。
 青葉台病院には2人の幼さな児と椎葉悦子さん、林早苗さんらの大やけどを負った被災者が収容され、夜になってもあわただしい時間が過ぎていきました。
 午後10時過ぎに、裕一郎君は「痛い いたいよう‥‥」「水、みずをちょぅだい‥」の叫び声の合い間に黒いどろどろした物を吐くようになり、急速に弱々しくなっていきました。
 「おばあちゃん、パパ ママ バイバイ‥」の声を残して裕一郎君が息を引き取ったのは、午前零時50分のことでした。弟の康弘ちゃんも嘔吐が始まり、父親の一久さんらの必死の励ましの中「ポッポッポ」と鳩ポッポの歌を
かすかにうたいながら翌日、未明の4時30分幼い生命を閉じたのです。

5,二人の幼児の母親は 
 裕一郎君と康弘ちゃんの母親の和枝さん(当時26歳)も、全身8割にも及ぶやけどで昭和大学藤が丘病院に運ばれました。一方月以上も絶対安静の危篤状態が続きました。
 ようやく死の淵から脱した和枝さんを待っていたのは硝酸銀の薬浴でした。全身やけどで皮膚が出来てこないので、化膿を防ぐための治療です。和枝さんの全身に激痛がはしり「殺して−」という悲鳴が病院中に響き渡りました。
そしてさらに、その後も皮膚移植手術などの手術が繰り返されました。
 「裕くんと康くんは他の病院で頑張って治療を受けている」という言葉を信じ、それを励ましとして厳しい治療を乗り越え少しずつ癒えてきた和枝さん。
その和枝さんに愛児の死を知らされたのは、事件から1年4カ月後のことでした。
 その時、和枝さんは変わり果てた2人の愛児の遺骨に対面し、遺骨を抱き締めたまま涙がなくなるまで泣き続けました。
 そして、泣いてもどうしょうもない残酷な事実を前にして、「子どもの分まで生きる‥」と、固い決意をしたのでした。
 その後、きびしい治療にも必死で耐え抜いてとうとう、松葉つえを使って歩行することも出来るようになったのです。
 和枝さんは皮膚の深くにまで及んだ火傷の治療のため、不自然な体位を余儀なくされ、ジェット燃料の火炎を吸い込んだことなどもあって、呼吸器障害などを併発し病院への入退院が繰り返されました。
 しかし、一進一退の状態から徐々に体力も回復していきました。
 そして、和枝さんは事件の経緯を振り返るにつけ、国の不誠実な態度に怒りを覚え、抗議の声も強くなっていきました。
 国は、和枝さんからの度重なる治療についての訴えや抗議の電話をまともに受けないばかりか、和枝さんを精神病者扱いにし、家族にも適切な説明もしないまま、精神病患者だけを収容する国立武蔵療養所に転院を強要したのです。

6,和枝さんの死 
 国立武蔵療養所に転院して間もなく、1982年(昭和57年)1月24日の夜、和枝さんは窓には鉄格子がはめられた病院の一室で呼吸困難に陥り、意識不明のまま翌々日の26日午前1時45分窒息死したのです。
 無念の死でした。
 そして、それは、ジェット機墜落事件から4年4カ月目の事でした。