119 - 虚無呼弖 ◆AbDmhTCTZY 2021/10/26(火) 02:55:41.16 ID:dm8mbf5l0
当職もどちらが正しいかまでは分かりませんが、補足程度に大友皇子即位説について軽く概要を書きます
671年に天智天皇が崩御し、翌年の672年に大友皇子と大海人皇子による後継争い(壬申の乱)が起こり、大海人皇子が勝利して天武天皇となり即位したというのが教科書にもある通説です
これに異を唱える考え方があり、天智天皇が崩御してから壬申の乱で敗北するまでの間に大友皇子が即位式を行って天皇の座に就いていた時期があったのではないか?というのが所謂大友皇子即位説です
この論争の最大の論点が「天智天皇が崩御してから壬申の乱で敗北するまでの間に大友皇子が天皇の座に就いていた期間が1日でもあったのか否か」という点です
大友皇子即位説を理由づける根拠がそれなりにあるため、長きにわたる論争とまで発展しているのです
ここからはwikiに記述を参照します(どの歴史書に何と書かれているかまでは当職は把握していないので)
https://tinyurl.com/y3bscjp6
平安時代の即位記述においては、
>もっとも早いのは10世紀に書かれた『西宮記』で、天智天皇10年の「12月に帝位に即く」とある。
>『扶桑略記』は、「天智天皇10年10月に大友太政大臣が皇太子に立った。12月3日に天皇が崩じた。同5日に大友皇太子が帝位についた」と記す。
>『年中行事秘抄』には、大友皇子が「皇太子となり帝位に即く」とある。
>『立坊次第』(紹運要略)には、天智天皇10年に「同年12月5日帝位に即く」とある。
>『水鏡』は、「10月には大友皇子を東宮に立てた」、「天智天皇10年12月3日に失せたため、同5日に大友王子が位を継いだ」とする。
>『大鏡』は天智・天武の継承では大友皇子の即位に触れないが、別のところで「大友皇子はやがて帝になり、帝のまま失せた」と記す、また「この皇子は太政大臣の位で、つぎにはやがて同じ年のうちにみかどとなった」とも書く。