思い出広場検索板メニュー
板一覧 / asahara

唐澤貴洋一族追求スレ

451 レス · dat原文

唐澤家・河野家等の一族を追求しましょう。 どんな些細な情報・疑問・推察でも構いません。一族に興味ある方をお待ちしております。 では、唐研のコピペやネットで収集した情報を貼っていきます。 乱雑としてますがどうかおゆるしください。                   (村井家)                    林七                      │      .(河野家) 一三━┯━房─┴─┐               .│       啓助           ┌───┴────┬──┬──┬──┬──┬──┐ (菅谷家)    │                │    │    │    │    │    │       (唐澤家)  .隆介    一英━┯┳喜代   英二  三郎  喜久  典男  櫻樹  六郎   吉信━┯━菜子   .│           │┗波子                                       │   .│           │                                       │   .│           └┬────┬─────────┐      ┌─────┬┘ .真理雄 ━━━━━英代    一郎━┯━直子       厚子━┯━ 洋         ????━┯━田中さん                             │              ┌─┴─┐         ┌─┴─┐                         沙季            貴洋    厚史      カズコ   妹妹
【唐澤家】 唐澤貴洋  尊師。 唐澤洋  尊師の父。元新日本有限責任監査法人常任理事審査部門長。公認会計士唐澤洋事務所代表。 唐澤厚子  尊師の母で一英の二女。成蹊大学文学部卒業。 唐澤厚史  尊師の弟。故人。 唐澤吉信  洋の父で尊師の父方祖父。明治大学商学部卒業、自動車鋳物株式会社(現アイメタルテクノロジー)総務部次長・監査役。 唐澤菜子  吉信の妻。尊師の父方祖母。 【唐澤洋】 唐澤 洋(からさわ ひろし、1947年8月12日 - )は、日本の公認会計士。 (登録番号:7107、日本公認会計士協会東京会)。 日本公認会計士協会綱紀審査会委員、株式会社ひらまつ社外監査役、 元新日本有限責任監査法人常任理事審査部門長。 公認会計士唐澤洋事務所代表。慶應義塾大学商学部卒業。妻は河野一英の二女厚子。 経歴 1947年 8月12日 唐澤吉信の長男として出生。海城高等学校を経て、慶應義塾大学商学部卒業。監査法人第一監査事務所(現新日本有限責任監査法人)に入所 1981年に公認会計士登録をする。1992年にセンチュリー監査法人(現新日本有限責任監査法人)代表社員となる 2007年にブルドックソース事件が発生。監査役として参加する 2008年に常務理事審査部門長となり、株式会社ランドの資産過大計上(粉飾決算)を指摘。しかしランド側が妥協せず契約を解除される 現在、新日本有限責任監査法人を退職し、公認会計士唐澤洋事務所の代表として息子唐澤貴洋の法律事務所クロスと連携して業務を行っている。 2012年10月17日、海城OBによる業種別組織「海原士業会」に会長として参加。 若い頃:http://www.shoutwiki.com/w/images/krsw/5/51/%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%81%97.jpg 現在:http://all-day-play.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_218/all-day-play/MiuMKmfD.jpeg 【唐澤厚子】 唐澤厚子(からさわあつこ、1952年12月27日 - )とは唐澤貴洋の母親である。 1952年12月27日に河野一英の二女として誕生。成蹊大学文学部を卒業後、唐澤洋に嫁ぎ、貴洋と厚史が誕生した。 顔開示? 2014年11月1日海原会のHPに写真が数枚アップされ、どの写真にも出龍の隣に女性が写っており顔が河野一英にそっくりなことから厚子本人ではないかと言われている。(海城高校は男子校なのでOGは存在しない。またHPに「夫婦での参加も多かった」という旨の記述があった) http://i.imgur.com/ArI7kjO.jpg
【唐澤厚史】 唐澤厚史(からさわあつし、1979年 - 1995年)とは、弁護士唐澤 貴洋の弟である。 尊師の弟。尊師が弁護士を目指す踏み台きっかけになった人物である。 1995年、地元の悪いもの達に恐喝され多摩川の河川敷で集団暴行にあった翌日に親にもいえず自殺する。享年16。 【唐澤吉信】 洋の父で尊師の父方祖父。明治大学商学部卒業、自動車鋳物株式会社(現アイメタルテクノロジー)総務部次長・監査役。 経歴 大正7年(1918年) 出生[1] 昭和16年(1941年) 明治大学商学部を卒業[2]し自動車鋳物(株)[3]に入社 昭和31年(1956年) まだ課長以上ではなかったと推測される[4] 昭和40年(1965年) 同社総務部次長兼庶務課長[5] 昭和41年(1966年) 同社総務部次長[6] 昭和43年(1967年) 同社総務部次長[7] 昭和48年(1973年) 同社監査役[8] 昭和49年(1974年) 同社監査役[9] 昭和56年(1981年) 同社を既に退社か[10] [1]『鉄鋼年鑑』昭和48年度版 https://books.google.co.jp/books?id=U-_RAAAAMAAJ&q=%E5%94%90%E6%BE%A4%E5%90%89%E4%BF%A1 [2]『東洋経済会社人事録』1966年版 https://books.google.co.jp/books?id=1Qc8AAAAMAAJ&q=%E5%94%90%E6%B2%A2%E5%90%89%E4%BF%A1 [3]『鉄鋼年鑑』昭和49年度版 https://books.google.co.jp/books?id=NObRAAAAMAAJ&q=%E7%9F%B3%E9%87%8E%E4%BA%8C%E5%A4%AB+%E5%90%89%E4%BF%A1 石野二夫氏は元いすゞ自動車取締役、元自動車鋳物社長 [4]『ダイヤモンド会社職員録』昭和31年9月版に名前がないため [5]『ダイヤモンド会社職員録』1965年版 https://books.google.co.jp/books?id=oiE1AQAAIAAJ&q=%E4%B8%8B%E7%94%B0%E7%94%BA%E3%80%80%E6%B8%AF%E5%8C%97%E5%8C%BA%E3%80%80%E5%90%89%E4%BF%A1 [6]『東洋経済会社人事録』1966年版および『ダイヤモンド会社職員録』1966年版 [7]『鉄鋼年鑑』昭和43年度版 [8]『鉄鋼年鑑』昭和48年度版 https://books.google.co.jp/books?id=U-_RAAAAMAAJ&q=%E5%94%90%E6%BE%A4%E5%90%89%E4%BF%A1 [9]『鉄鋼年鑑』昭和49年度版 [10]『鉄鋼年鑑』昭和56年度版に名前がないため https://books.google.co.jp/books?ei=7_9AVeKSKsPAmwXV1IC4DQ&hl=ja&id=vOHRAAAAMAAJ https://books.google.co.jp/books?id=1Qc8AAAAMAAJ 横浜市港北下田町465 242 名前:グナマーナ正大師[] 投稿日:2015/05/02(土) 22:13:59 ID:VMcWQwEc 鶴見で思い出しましたが最近開示された唐澤吉信さんの住所(以下吉信サティアンとする)ですが、 もしこれが「世田谷区で幼少を過ごし、小学校途中で横浜へ。」の「横浜」だとすると、 法政二中には公共交通機関でも楽々通えますが、聖ヨゼフ学園小までは1時間ほどかかってしまいます。 小学生の通学でこれはいけない。 車での送迎なら30分くらいで送迎することも可能です。 真実はどうなのですか。貴洋さんお答えください。 【唐澤菜子】 洋の母で尊師の父方祖母。 https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=oiE1AQAAIAAJ&focus=searchwithinvolume&q=%E5%90%89%E4%BF%A1 総務部次長兼庶務課長虎沢吉信〔菜子)
河野氏と諏訪氏の傍流が交わる家系というのもすごいなあ なお
【河野家】 河野一三  一英の父。尊師の母方曽祖父。地元活動の有力者。 河野房  一三の妻。一英の母。旧姓村井で村井証券(現・ライブスター証券)の創業者・村井啓助の妹。尊師の母方曽祖父母。 河野一英  一三の長男。尊師の母方祖父。 河野喜代、河野波子  一英の妻。波子が後妻だが、尊師の母・厚子がどちらの妻との間の子なのかは不明。 河野英二  一三の次男。一英の弟。尊師の大叔父。元山形日本電気顧問。 河野三郎  一三の三男。一英の弟。尊師の大叔父。病院技師。故人。 河野喜久  一三の長女。一英の妹。尊師の大叔母。創価学会文芸部員。故人。 河野典男  一三の四男。一英の弟。尊師の大叔父。明治大学商学部卒業。元世紀東急工業取締役社長・会長、元東急建設取締役社長、連合駿台会一・三代会長を歴任。 河野茂典  典男の子。尊師の従叔父?。東急建設に入社し執行役員・東北支店長となるが、談合汚職事件に関わり、談合の事実を認めた後、2006年に飛び降り自殺。享年58歳。 河野櫻樹  一三の五男。一英の弟。尊師の大叔父。モトキ商事社長。一三が多摩川に植えた桜並木が名前の由来と思われる。 河野六郎  一三の六男。一英の弟。尊師の大叔父。モトキ商事社員。 河野一郎  一英の長男。尊師の伯父。早稲田大学大学院博士課程修了。中央学院大学商学部教授。故人。 河野沙季  一郎の娘。一英の孫娘。田園調布サティアンに彼女の名前が記載された表札があったことから、尊師の母の実家である河野家の存在が発覚した。
【河野一英】 河野 一英(こうの いちえい/かずひで、1920年 - )は日本の会計士。元センチュリー監査法人会長。大東文化大学名誉教授。商学博士。娘婿に日本公認会計士協会綱紀審査会委員の唐澤洋。 経歴 1920年 8月に朝鮮京城市で河野房、一三の長男として誕生、9月に広島県を経て東京の田園調布に移る。 1938年 東京府立第一商業を卒業し、明治大学商学部に入学 1944年 9月に繰り上げ卒業、10月海軍予備学生となって館山海軍砲術学校に入学 1945年 恩賜優等賞を受け卒業し、海軍大尉となり、呉鎮守府第101特別陸戦隊(山岡部隊)に選ばれアンダマン島赴任、 復員し従七位叙せられる 1947年 長男一郎誕生 1954年 公認会計士試験に合格 1955年 明治大学中央商科短大各講師に就任 1963年以降 大東文化大学名誉教授、オーデリック特別顧問、日東工器、日本ライフライン、化学工場日報社、 味の浜藤、シンシ各顧問、横浜化成監査役、学生部長経営学科主任教授、理事経済学部長、 大蔵省公認会計士試験委員、会計学会理事センチュリー監査法人会長を歴任 1984年 明治大学より商学博士の資格を取得 1992年 日本公認会計士協会学術賞を受賞 1994年 勲四位に叙せられる 1997年 茗水クラブ初代会長 主な著書・論文 著書 売掛金の回収管理 : 質倒れ防止のチェック・ポイント(同文館1971) 工業簿記 : 初歩から原価計算まで(鶴書房1969) 論文 イギリス式財務諸表のもつ特異性(1983) イギリス会計思考に関する一考察(〃) 会計学における思考様式に関する一考察(1982) 会計方法論の史的考察(1980) 日米財務諸表の主な相異点について(1979)
一英は新自分語りに教員やってたとか書いてあったな あと田中斉議員の秘書をやってた一瞬もあった
NGワード含まれてるってなって書き込めないナリ…なんでや
>>8 同じ文字列を含むURLを何行も貼るとしたらばさんサイドがキレるからしゃーない imgu rとかimg urみたいにするなりで回避することを切に望む
■特定までの流れ http://www5.atchs.jp/test/read.cgi/krswhistory40298/1405946816/13 >唐澤家表札に河野沙希 >唐澤家の裏の建物に河野一英の表札であるとストリートビューで確認(東京都大田区田園調布本町36-15) http://ja.m.wiktionary.org/wiki/Wiktionary:%E4%BA%BA%E5%90%8D%E7%94%A8%E6%BC%A2%E5%AD%97%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#section_1 >沙が人名に使えるようになったのが1976年からだから尊師の母やばぁちゃんは無い http://www5.atchs.jp/test/read.cgi/krswhistory40298/1405946816/6 >坂本総合法律事務所の故・坂本弁護士と河野一英は明大OB繋がり http://www.rengosundaikai.jp/wp/wp-content/uploads/2012/09/img_help.gif >法納得の恒心綜合法律事務所のページから河野一英事務所との繋がりを削除してる >コネ採用ということを隠したかったんだろう >公認会計士唐澤洋事務所(元新日本有限責任監査法人常務理事),河野一英事務所(元センチュリー監査法人会長,大東文化大学名誉教授,商学博士,公認会計士)と連携し,会計法務においてワンストップのサービスを提供することができます。 http://web.archive.org/web/20110807235924/www.hou-nattoku.com/lawyers/lo_detail.php?lo_id=12668
尊師おじいちゃん河野一英氏雑誌インタビュー記事 http://i.i mgur.com/YzF95Q4.png http://i.i mgur.com/WytfOor.png http://i.i mgur.com/6DZ0PHz.png http://i.im gur.com/d7Eqcou.png http://i.im gur.com/dXQMGzP.png http://i.im gur.com/PEYLUjN.png
登記簿 http://i.i mgur.com/04TNdH4.jpg http://i.i mgur.com/ck94NRs.jpg http://i.i mgur.com/nuwJV3i.jpg http://i.im gur.com/afR3O80.jpg http://i.im gur.com/bFlMusZ.jpg http://i.im gur.com/ICdewlX.jpg http://i.img ur.com/5jMp16l.jpg
河野一英紳士録(上から第45版、第40版、第30版) http://i.i mgur.com/dNXCKec.jpg http://i.i mgur.com/bMhLmrv.jpg http://i.i mgur.com/IeMzUqv.jpg 産業新潮ユーモア対談 http://i.im gur.com/1wUSFGr.jpg http://i.im gur.com/qKtNrsF.jpg http://i.im gur.com/5z21ZWS.jpg 月刊国際税務 INTERNATIONAL TAXATION http://i.img ur.com/ATO7YXF.jpg
機関誌『わだつみのこえ』127号…[連載]語り継ぐ戦争体験者の証言⑥ BC級戦犯60年目の証言と日本の戦争  では、私の生い立ちから……。  私は大正九年八月に朝鮮京城市で生まれ、一ヶ月後に広島県を経て東京の田園調布に移り、そこで成長しました。  昭和十三年に東京府立第一商業を卒業、明治大学に入り、十八年九月繰り上げ卒業。同年十月海軍予備学生となって館山海軍砲術学校に入隊しました。  四ヶ月の基礎課程を終わって翌十九年三月、恩賜優等賞を受け卒業し、海軍少尉になり、そのさい特別攻撃隊要因に選ばれたのです。 http://i.i mgur.com/YzF95Q4.png http://i.i mgur.com/WytfOor.png http://i.i mgur.com/6DZ0PHz.png http://i.im gur.com/d7Eqcou.png http://i.im gur.com/dXQMGzP.png http://i.im gur.com/PEYLUjN.png
http://fruits.jp/~kikyorai-yard/wadatsuminokoe/magazine.html ■連載 語り継ぐ戦争体験者の証言⑥ BC級戦犯60年目の証言と日本の戦争…………………河野 一英 春の叙勲、喜びの受章者 勲四等 /東京 1994/04/29 河野一英  73(教育研究)大田 1943/10月に海軍予備学生となり、館山海軍砲術学校に入隊 横須賀の海軍砲術学校の分校として設立されたこの学校は、対米英戦の戦術戦略上において、最高機密の特命を持った特別陸戦隊養成が課せられていたこともあり、「鬼の館砲」と呼ばれた。 実地訓練は館山航空隊基地を敵の飛行場と想定し、狭い航空基地内に落下傘で正確に降下することが要求された。この猛特訓では降下に失敗し死亡する事故もあった、「死の特訓」である。 また術科は砲術・陸戦・航海・対空・通信等の諸科の他に化学兵器科もあり、当時日本で細菌戦の訓練をしていた唯一の学校と言われる。 http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%A0%B2%E8%A1%93%E5%AD%A6%E6%A0%A1 1944/03月に館砲学内で優秀なトップグループ(陸戦)の20名に選ばれ、特攻特殊部隊「山岡部隊」要員に予備学生ながら特別選抜される 海軍陸戦隊の中でも特に体力、知力に優れ、風貌や体格が欧米人風という条件を満たした350名を選び編成されていた。 訓練は、もっぱら夜間で、アメリカ本土の地理や交通に関する知識をはじめ、英語や風習に関する教育が行われ、隊員の服装や食事もアメリカ風だったといわれている。 隊員には、どんな苦難や欠乏にも絶える特殊な訓練が課せられ、短い自動小銃をはじめ40kgの荷物を背負って、一日60kmを駆け足で移動する強行軍や、富浦町大房岬の海岸にある100m近い絶壁を素手で登る訓練を行ったといわれている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C%E7%AC%AC101%E7%89%B9%E5%88%A5%E9%99%B8%E6%88%A6%E9%9A%8A 続・トンツー談義(95) 海軍時代の記憶 -山岡部隊のことー 当時の陸海軍々人で長髪の者は居ませんでした、或る時、物資補給のため横須賀の補給部へ行った時、夜、映画を見に行きました、映画館は満員で私は端の方に立って見ていましたが長髪のため軍帽を被ったままでした。 そのうち後ろの方から「其処の兵隊帽子を取れ」と云う声がかかり帽子を取り最後まで映画を見て帰ろうとしたら、腕を強く握られ「この髪は何だ」と長髪の髪を引っ張られたので、「私は館山砲術学校に居る山岡部隊の者です、司令の命令で髪を伸ばしています、海軍の軍令部に問い合わせて下さい」と言い、そのまま約15分位したら「帰って宜しい」と無罪放免された事を今でもハッキリ覚えています。 館山の軍事施設の由来を記した「館山基地物語」にも幻部隊とか忍者部隊として一時記載されていた様です。私達の宿舎はこの砲術学校の一番奥にあり奥兵舎と呼ばれていました。 此所での訓練は以上のような目的のため、日常の簡単な英会話、英文の判読、及び野外訓練としては夜間訓練が主となり、日没時から夜明けまで南房総の山野を歩き回り、体力増強、方向維持訓練及び忍者の様な夜間訓練だけでした。 これは予め2~30キロ先に目標物を置き、日没と同時にその目標物に向け地図と磁石を頼りに5~6人が一団となり行動を始めます、そして目標物の傍に「爆薬」と書いた紙片を置いて夜明け迄には宿舎に帰らなければなりません。 当時の思い出話として、現在も海自の「隊友会」の集いの席上で必ず話題になるのが、各自、約10キロの砂袋を背負い、館山から靖国神社まで2泊3日の往復徒歩行軍でした。全行程約200キロ弱で、1日5~60キロを目標に歩いた事になります。誰一人として落伍者は無く無事この訓練の成果が出た事は、今も語り草になっています。 http://megurokai-h.jugem.jp/?eid=333 都立第一商業同窓会顧問 http://isshou.ciao.jp/pdf/hachiyama_50.pdf http://isshou.ciao.jp/pdf/H26yakuin.pdf チャンギー慰霊祭 集合写真 http://www.shoueiin.jp/annai/pop/l_changi_012.jpg http://www.shoueiin.jp/annai/ceremony_apr_02.html
【河野典男】 一三の四男。一英の弟。尊師の大叔父。明治大学商学部卒業。元世紀東急工業取締役社長・会長、元東急建設取締役社長、連合駿台会一・三代会長を歴任。 身長180センチ、体重100キロという巨漢。趣味はゴルフ、絵画や日本庭園の鑑賞、太平洋の島々の素掘りの人形集め、謡曲。 経歴 昭和3年(1928年) 11月19日に東京府下荏原郡東調布町字下沼部で誕生 昭和20年(1945年) 武山海兵団、砲術学校入隊 昭和23年(1948年) 復員、臥薪嘗胆期間 昭和24年(1949年) 明治大学商学部入学 昭和28年(1953年) 明治大学商学部卒業 昭和28年(1953年) 東京急行電鉄入社 昭和30年(1955年) 私鉄経営者協会に派遣 昭和33年(1958年) 東京急行電鉄勤労部に異動 昭和36年(1961年) 東急建設に出向、総務課係長 昭和42年(1967年) 同社総務部長 昭和44年(1969年) 同社横浜副支店長 昭和48年(1973年) 同社取締役 昭和51年(1976年) 同社常務 昭和53年(1978年) 同社常務、東急道路取締役 昭和56年(1981年) 同社専務 昭和57年(1982年) 東急道路と世紀建設の合併を交渉 昭和63年(1988年) 同社副社長 平成04年(1992年) 世紀東急工業社長 平成14年(2002年) 茗水クラブ六代会長、連合駿台会初代会長 平成20年(2008年) 連合駿台会三代会長 平生24年(2012年) 明治大学顧問 https://books.google.co.jp/books?id=v0AzAQAAIAAJ&q=%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%85%B8%E7%94%B7 連合駿台会一・三代会長 明治大学顧問 元世紀東急工業会長 現在の写真:http://www.rengosundaikai.jp/wp/wp-content/uploads/2012/09/kouno.jpg 若い頃:http://www.rengosundaikai.jp/wp/wp-content/uploads/2012/09/ph_president_06.jpg
建設人より以下全文  世紀東急工業創立10年目の今年6月に東急建設副社長からこちらの社長に就任した。 東急の生え抜きであり、世紀建設と東急道路合併の立て役者だから、誰が見ても順当な人事。 身長180センチ、体重100キロという巨漢で、事実なかなかの豪傑だが、相手の立場に立って考える繊細さも備えている。 技術者だった歴代の世紀東急工業社長と幾分肌合いが違うが、人柄がよく「誠実と努力を旨とする」など、大筋では同じ系譜に連なる人といえる。 持ち前の馬力で会社をどう発展させるか、注目されるところである。  昭和3年11月19日、東京府下荏原郡東調布町字下沼部の生まれ。「ボツボツ住宅が建ち始めていたが、辺りはまだ一面の畑だった」というが、何とそれが今の田園調布。 兄3人、姉1人、弟2人の7人兄弟で、体が大きく、おっとりしていたので、「七福神の布袋さん」と呼ばれていたとか。  父が、当時の横浜市長と多摩川の両岸10里に桜を植えさせたり、丸子橋の架橋を計画し、東急電鉄に土地を寄付させて東京側から着工するなどの地元活動をした土地の有力者だったので、小学校を終えると、その父の弟分が校長をしていた東京実業学校に進む。 ところが戦争が激しくなり、修業年限も短縮され、「本土決戦」の声も聞かれるようになったので「同じ殺されるなら戦って死のう」と決意し、海軍特別幹部練習生の試験を受けて、20年5月武山海兵団に、そして砲術学校に入隊した。  ここの訓練は大変なものだった。重装備の強行軍では、意識不明になって倒れるものがバタバタ出た。 米軍機の爆撃で友人の何人かが亡くなられたこともあった。藤沢市辻堂の演習場で砲術訓練を受けていたら本当に敵機があらわれ、そのまま実戦となった。 こうした訓練の中で「何クソッ」という度胸がつき、おっとりした人柄が一変した。 それ以来、どのような困難に遭遇しても「あの時耐えられたんだから」と思うと少しも怖いと感じなくなったという。  「敵の機動部隊が相模湾に上陸してくる」という情報もあり、手榴弾を渡されて水際決戦の訓練をしている最中に終戦の詔勅を聞いた。 突然のことで何がなんだか分からず、戦友たちと抱き合って泣いた。同時に「ああ、これで助かったんだな」という感慨も湧いた。  復員したが上級学校へ行く気にもならず、1年ぐらい虚脱状態でいるところへ長兄が復員してきて「これからは学校へ行かなければダメだ」と叱咤激励されたため、翌年明治大学商学部の専門部を受けて入学した。  本科を卒業するに当たって、父が当時の東急会長五島慶太氏(故人)と親しかったので東急電鉄を受けて合格、28年7月入社した。  2年近く、改札、出札、車掌、運転士などを勤めたあと、20年5月から3年間私鉄経営者協会に派遣され、私鉄総連との団交や中労委交渉の事務局を勤めた。 20歳代の若さで中央の労委交渉の表裏を見、経営や労務の勉強をし、中央官庁や組合幹部とも知り合い、とくに、後に私鉄各社の幹部になる各社派遣社員と昵懇になったことは、河野さんにとって得難い経験がった。  33年には本社勤労部に戻ったが、入社以来この時期を通じて勤労部長だったのが、現会長の八木勇平氏である。
 36年2月には創業1年ばかりの東急建設に出向し総務課係長、しばらくして課長、総務部次長と創世記の同社の経営中枢に関与。 44年には横浜市店長、続いて本社総務部長、人事部長、横浜市店長、常務、専務、東京支社長、副社長、東急建設の発展とともに栄進した。  その間、社は47年代をはじめにはグアムに進出、建設業界では他社に先駆けて現地法人も作った。 だが一時、第1次石油ショックなどの影響もあって、うまくいかなくなり、撤退話が持ち上がったことがあった。 当時の八木社長から「撤退してもよいが、東急が逃げ帰ったと言われないようにしてくれ」と支持された。 これを聞いたこの人は「じゃあ、私がやります」と切り込み隊長を買って出、自らタイ、マレーシア、シンガポール、ハワイに乗り込んで現地の提携先を探し、海外事業発展の橋頭堡を築き、続いてシアトル、ロサンゼルス、バンクーバー、パラオ、バヌアツ等へとエリアを広げていった。 また、東京支社長時代には、折からの首都圏集中の波に乗って多角的な事業を展開、東京の用賀プロジェクトや羽田空港のJASの格納庫(現在工事中)なども手がけたが、特筆すべきものの一つが、池上線戸越銀座~旗の台駅間で行った、現在使用中の線路の真上に仮受桁を組み立て、一晩のうちに線路を切り替えるという「直上高架切替工法」の開発、施行だった。 このようにして、就任時1千億円だった事業規模を約3倍に広げた。  53年には東急建設の常務を勤めながら、東急道路の取締役を兼ねたが、そのころ旧満州国(現中国東北地方)の優秀な技術官が集まっている世紀建設と東急道路の担当として、当時の世紀建設副社長の工藤忠夫さん(注=元世紀東急工業社長・故人)と交渉に当たり、57年合併に持ち込んだ。 世紀東急工業の誕生である。そうした経緯もあって今年6月社長に就任した。  「あれ以来、私は工藤さんを技術にも経営にもめっぽう強い素晴らしい兄貴分として私淑してきました。幸い、我が社はこれまで4代の社長の技術と人柄で信用を築いてきました。 この伝統を壊さないよう、一致協力して社業を発展させていきたい」と社長としての抱負を語る。  また、者の運営については「企業は人なりと言われうが、幸い我が社は人に恵まれているので、皆で力を合わせて、皆さんに”この会社に勤めてよかったなぁ”と思ってもらえるような会社にしていきたい」と考えている。  昭和46年、乗用車を運転して高速道呂の川崎インターで照明灯に衝突した。すごい衝撃だった。 額に手をやると骨が出ている。隣に乗せていた部下のことが気になったが、救急病院で治療を受けたあと、院長が看護婦に「村山さんは通院でいい。河野さんは入院」と支持しているのを聞いて「2人とも助かったんだな」と思ったという。 この時の後遺症で、今も左目は見えず、左手は曲がったまま。 だが、この時の5~6回の手術の中で①自分は前方不注視でこんな目にあったが、人間はいついかなる場合でも、最も肝心なことだけは守らなければならないんだ、②こんな苦しみは経験しないと分からない。 人間は他人の立場に立って考えることが大事なんだ―――という2つのことを学んだという。ケガしても、タダでは復活しない人である。  今でも月4回はゴルフをやる他、絵画や日本庭園を見て回るのが好き。 変わったところでは、ハワイ、ニュージーランド、ポナペなど太平洋の島々の素掘りの人形を集めている。それに謡曲も歌うなど趣味は極めて多彩。 「前東急建設社長の馬渕虎雄氏が亡くなるとき”人に心を尽くしたよい人生であった”と言われたが、私は”人に心を尽くされ、そして尽くしたよい人生であった”と言えるようになりたい」というあたり、人の心を大切にする社長さんである。 http://i.imgur.com/aKGyMst.jpg 実業界 http://i.imgur.com/mG3fRzj.jpg 2014年3月19日 60周年式典・懇親会が盛大に 連合駿台会として第1代、第3代会長である河野典男様と、第2代会長である長堀守弘様に、記念品が贈られました。 http://rengosundaikai.jp/info/926/
【河野茂典】 典男の子?。尊師の従叔父?。父の縁故で東急建設に入社し土木技術員・執行役員・東北支店長となるが、元福島県知事・佐藤栄佐久も逮捕された東急建設福島県談合汚職事件に関わり、東京地検特捜部からの事情聴取で談合の事実を認めた後、2006年8月15日に東京都内のホテル12階から飛び降り自殺。享年58歳。 東急建設支店長、談合を認めた後に自殺 準大手ゼネコン「東急建設」(東京都渋谷区)の河野茂典・東北支店長(58)が東京地検特捜部の事情聴取で談合を認めた後、自殺した。 東京地検特捜部は福島県発注の下水道工事について談合の疑いがあるとみている。この談合疑惑には佐藤栄佐久・同県知事の周辺者も関与しているとみられる。 東京地検特捜部は水谷建設(三重県桑名市)の脱税事件についても参考人として東北支店長を事情聴取していた。 2006年8月15日正午頃、東北支店長は東京都中央区内のホテル12階から飛び降りた。ホテルに隣接する公園の植え込みに倒れているところを通行人に発見された。 ズボンにワイシャツ姿で、ホテルの部屋には財布やバッグ、メモ書き等があった。一人で宿泊していたという。 東急建設東北支店は仙台市青葉区にある。河野茂典支店長は土木技術員で、2002年に九州支店土木部長から東北支店長に就任した。 2006年6月27日付で執行役員を兼務した(東急建設株式会社「平成18年3月期決算短信 (連結)」2006年5月12日)。 同社広報担当は「誠実かつ優秀な社員で誠に遺憾。捜査に関しては内容が分からない」と話している(「特捜部の聴取後に都内ホテルから飛び降り」日刊スポーツ2006年8月18日)。 特捜部は2006年8月に入ってから東急建設東北支店長から複数回にわたって任意聴取し、支店長は談合を認めたという。 東京地検の岩村修二次席検事は8月17日に東北支店長が事情聴取を受けていたことを認めた。しかし事情聴取の経緯や適否、自殺までの経過については説明していない(「東急建設支店長が自殺」福島民友新聞2006年8月18日)。 毎度のことながら、本当に自殺なのか疑わしい。事件の全貌はライブドア野口英昭怪死事件と同様、闇から闇へ葬られてしまうのだろうか。 元々、政界と業界の重要なパイプは前田建設工業ではなく、東急建設という見解もあった。東急建設支店長は東急グループのホテル(エクセルホテル東急、東急イン)に泊まっていたのだろうか。それが一番危険という説もあるが。 http://homepage2.nifty.com/tokyufubai/kensetsu3.htm
31 名前:風吹けば名無し :2013/08/25(日) 02:25:45.74 ID:clfoiZCz http://i.i mgur.com/IeMzUqv.jpg 河野典男さんは1928年生まれの東急建設常務 http://w ww.asahi.com/special/060905/TKY200610240237.html > 8月には、特捜部の事情聴取を受けていた準大手ゼネコン「東急建設」(東京都渋谷区)の東北支店長が、都内のホテルで自殺している。 →他の記事から東北支店長は1948年生まれの河野茂典さんと分かる 同じ会社の典男さんと茂典さん 「一三→一英→一郎」「洋→貴洋」の命名規則見ると親子かもしれない 20歳差というのが際どいところ 50 :塘懌?拝:2013/08/25(日) 05:49:51 ID:dM7RbgC6 http://c onst.tokyu.com/ir/pdf/4thfull.pdf 東急建設と唐澤洋が関わってるな 支店長だった河野茂典が河野典男の息子という説の信憑性が少し上がったか 51 :塘懌?拝:2013/08/25(日) 05:52:26 ID:dM7RbgC6 去年の段階で分かってたんやな 典男さんは世紀東急工業、茂典さんは東急建設 当確ですわ 唐澤洋氏が関わった企業wwwwwwww 1 :風吹けば名無し:2012/10/24(水) 21:16:07.33 ID:UDLvZeAm ひらまつ ファナック 日本アンテナ ゴールドパック 比較.com 世紀東急工業 稲葉製作所 東急建設 ブルドックソース FDK 52 :塘懌?拝:2013/08/25(日) 06:00:27 ID:dM7RbgC6 ゴールドパック株式会社は、丸紅傘下の清涼飲料水メーカーである。かつては東急グループであった。
【河野一三(かずそう)】 一英の父。尊師の母方曽祖父。地元活動の有力者。 大多摩川愛櫻会常任幹事、田園調布風致協会常務理事、方面委員。 建設人(http://i.i mgur.com/aKGyMst.jpg)より >父が、当時の横浜市長と多摩川の両岸10里に桜を植えさせたり、丸子橋の架橋を計画し、東急電鉄に土地を寄付させて東京側から着工するなどの地元活動をした土地の有力者だったので、小学校を終えると、その父の弟分が校長をしていた東京実業学校に進む。 >本科を卒業するに当たって、父が当時の東急会長五島慶太氏(故人)と親しかったので東急電鉄を受けて合格、28年7月入社した。 唐澤貴洋さんの曾祖父河野一三さんご尊顔と自分語り  大多摩川愛櫻会は、人々が設立したと言うよりも、時が生んだものと見るほうが適当かも知れない。  その議の初めて起ったのは、昭和四年の春である。当時内務省が大正七年以来着々進捗せしめつつあった多摩川下流治水工事は、将に竣成せんとし、河口より遡ること五厘あまりに及ぶ両岸の大堤防地域六百万坪は、徒らに雑草の繁るがままに放任してあったので、毎日これを眺める両岸の市町村民のみならず、国家的見地よりその利用方法について心を碎く人々が多かった。  天に声無くし人をして言わしむ。遂にその第一声は河野一三氏によって発せられた。 滅私奉公を地で行く河野氏――田園調布の高台の自邸の庭先から毎朝多摩川を俯瞰して考え込んでいたが、昭和四年二月の肌寒いひと朝。ブラリと当時町長の天明啓三郎氏を訪ねて  町長さん、あの大堤防を利用することにしようじゃありませんか。と例の熱のこもった一言に、町長が ただ放って置くのは全く勿体ない、皆が屋根替に困ってるから、茅でも植えさせて貰おうかと考えてるところなんだが…というと 茅の恩恵を受ける人は少数だ。長堤に植えるのは櫻ですな。百年後の櫻の名所をつくるんです。春は花、夏は鬱蒼たる緑樹帯です。京浜幾百万の健康道場になるじゃありませんか。 と河野氏一流の大乗論を始めたので、町長も「よいところに気がついてくれた」と早速大賛成。 議は次第に熟して、同三月七日には多摩川畔丸子園に雑談会が開かれた。発起人は河野氏、天明氏の他に当時の中原町長安藤安氏等、集まるもの東京府の砧村、玉川村、東調布町、矢口町、六郷町、羽田町並に神奈川県下の川崎市、中原町、高津町等、両岸の一市八ヶ町村の代表者で、協議の結果、両岸の長堤に櫻樹移植の請願運動を起こすことに一決し、 超えて十日、川崎市長春藤嘉平氏連盟市町村長一行は、内務省に望月圭介大臣を訪問して第一回の陳情をなし、河川関係当局にも諒解を求めたのであったが、春藤市長はかつて山形県知事に転任に先立ち、山梨県内務部長として甲府城跡に櫻樹移植を唱道して、今日の櫻の名所を作り上げた経歴を有するだけあって、櫻花と武士道を説き、櫻の多摩川と京浜幾百万の(中略) 身に寸暇さえあらせぬ有吉会長、愛櫻会のことと何を措いても河野幹事を引見される、病床の枕邊にさえ呼ばれて厭われない。「河野君の熱心に動かされるのだ」と会長は仰っしゃる。 何れの熱誠が何れを動かすかは兎も角して、霜山顧問の溌刺たる計画の才、と共に三者は本会の至賓と言うべきであろう。(中略) 有吉会長の徳、霜山顧問の智、そして河野幹事の熱、この智、徳、熱の三社が愛櫻会を永続せしめ発展せしめる要素であろう。ある人は河野氏をして、佐倉宗吾と指称した。まことに氏は櫻宗吾とも言うべく、多摩川開発を生命として寝食を忘れてた闘う義人である! 多摩川へ櫻植初めの東郷元帥引出し、濱口首相の祝辞請賜、独伊防共盟邦への櫻の寄贈、伊国訪日親善使節の多摩川招致等々、多くは霜山氏の智に出て、河野氏の熱と押しで賓行んい現れたと言うものが多いであろう。 而して三氏に共通するものは正義観念の強烈なことである。義のために劣化の中に躍り入る意気があると共に、その反面不義を嫌うこと蛇蝎の如く、正と不正に処する限界が明らかに区別される。(中略) 我が愛櫻会長有吉忠一氏並に幹事河野一三氏は、三月二十三日夜、訪日使節団長から公式晩餐会に招待されて出席した。(有吉会長のご招待は横浜商工会議所会頭の資格が主であったかも知れない) 当夜は、梨本宮殿下も御台臨あらせられ、近衛首相他各大臣、枢密院議長、その他と共に席に列するを得たのは櫻外交があった故に我が会に敬意を表されたものと思うが、すこぶる光栄の至りであった。 http://i.i mgur.com/cBKL3ju.jpg http://i.i mgur.com/AqwUV18.jpg http://i.im gur.com/9KZEc6Y.jpg http://i.im gur.com/zloCVoN.jpg http://i.im gur.com/kb2LPbY.jpg
http://i.i mgur.com/8DlaMdS.jpg 池田名誉会長の写真紀行 光は詩う 第23回 桜樹燦爛(おうじゅさんらん)  私のふるさと太田の多摩川のほとりにも、有名な桜並木がある。  流れに沿い、堤に沿って、にぎやかに万朶(ばんだ)の春を展(ひろ)げる、平和の園となっている。そこにも、ひとつのドラマがあった。  その昔、多摩川は決壊を繰り返す「暴れ川」であった。  大正七年から、政府は多摩川の下流の治水工事を推進した。  昭和四年春、十余年におよぶ工事が竣工しつつあったが、河口から二〇キロにおよぶ地域は、雑草が茂るままであった。今の太田文化会館のあたりの両岸がそうである。  さて、この土地をどうするか――町長は「屋根替」のために「茅」でも植えようかという。  すると、ある人いわく「茅の恩恵を受ける人は少数だ。長堤に植えるのは桜です。百年後の桜の名所をつくるんです」。春は花、夏は緑。「京浜地域の幾百万の健康道場」にすべきだというのである。  彼、河野一三(かずそう)氏の無私の情熱が、多くの人を動かして、障害を乗り越え、雑草の堤は、桜の公園に生まれ変わった。そして戦火にも負けず、生き抜いて、今、二十一世紀を迎えんとしている。「百年後の桜の名所を」との尊き思いの通りに。  河野さんは、学会の文芸部員として活躍された娘さんの勧めで、晩年に学会員となられた。 http://kosenrufu.ldblog.jp/archives/1565479.html 182 名前:グナマーナ正大師[] 投稿日:2015/05/04(月) 19:24:12 ID:tVwBN9U. 趣旨の異なるスレに書き込んでしまい申し訳ございません。 尊師の曾祖父河野一三氏が写っているかもしれない集合写真を見つけました。 大多摩川愛桜会の皆様 http://touyoko-ensen.com/mini%E2%80%90info/cook/ht-image/pic-059tamagawa/kuga-s9sakura.jpg http://touyoko-ensen.com/mini%E2%80%90info/cook/ht-txt/059tamaagwa.html
【河野一郎】 一英の長男。尊師の伯父。早稲田大学大学院博士課程修了。中央学院大学商学部教授、工学院大講師。故人。 1947年 2月15日、誕生 2008年 61歳で逝去 論文 情報革新と戦略的コスト・マネジメント (1997) CVP分析に関する一考察 (1992) DSS・エキスパートシステムと管理会計 (1991) 情報システムの進展と管理会計 (1990) 省力設備の投資規模決定 (1976) 不確実性と損益分岐点分析 : 対数正規モデルと正規モデル (1975) http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000002555400 ■会員近況・声■ 中央学院大学商学部商学科 河野一郎 現在の環境の変化は会計を広義にとらえつの情報システムとして把握しようとするようになってきています。 情報処理と会計の関係については内部指向のプロセス(戦略的計画,マネジメントコントロール,オベレーショナルコントロール)と外部指向のプロセス(財務会計)に分けて考えることができます。 私は現在商学部で管理会計論と会計情報論を担当している者です。 管理会計論は経営の計数管理にかかわるものであり,伝統的な思考方法とともに隣接諸科学からの概念や手法の適用がなされており,ORもそのうちの1つであるということができます.管理会計においても計量的意思決定モデルを十分に活用すべきであるということがしばしば指摘されています。 私はこうした管理会計へのORや情報システムの影響について関心を持っており,今後この分野がより一層充実されることを願っています。 http://www.orsj.or.jp/~archive/pdf/bul/Vol.31_11_714.pdf 授業評価 2006年07月19日 プロゼミ落としたけどあんまり人と関わりたくない人にお勧めかも(笑) 基本的に出席だけしてればOK 授業もパソコンいじくるだけ、たまに外に散歩(5分)で終了 http://chuougakuin.campuscity.jp/lecture/f0001229/l0011215 2006年06月01日 授業中に配布されるプリントを、試験に持ち込んで丸写し!試験用紙いっぱいに書けば、99.9%「優」です。(ちなみにプリントは持ち込み可、堂々と写せる) http://chuougakuin.campuscity.jp/lecture/f0001229/d003271/l006271
【河野喜久】 一三の長女。一英の妹。尊師の大叔母。創価学会文芸部員。故人。 >河野さんは、学会の文芸部員として活躍された娘さんの勧めで、晩年に学会員となられた。 http://kosenrufu.ldblog.jp/archives/1565479.html 366 名前:グナマーナ正大師[] 投稿日:2015/05/02(土) 23:35:07 ID:bQv4RsqA 趣異申 これは1Aの妹喜久さんなのでしょうか。 https://books.google.co.jp/books?id=dqMzAQAAIAAJ&q=%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%96%9C%E4%B9%85 >(朝日新聞 2 月 14 日)行政区割りで地震は来ない東京都河野喜久 68 自由業我が家が >所属している居住区は目黒区である。ただし道の向こうは大田区、駅に出るには大田区 >の道路を通らねばならぬ区際地域だ。駅前の放置自転車の持ち主の多くは目黒区の ... この記事が朝日新聞に載ったのは1995年3月4日なので http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/MetaView.jsp?LANG=JA&METAID=00368412 大正15年(1926年12月25日まで)生平成8年(1996年)没の http://i.imgur.com/dNXCKec.jpg 河野喜久さんであっても矛盾しませんを
【菅谷家】 菅谷隆介  尊師の伯父の父。東京大学卒業。日本興業銀行副頭取、新日本証券会長、新日本証券株式会社相談役を歴任。故人。 菅谷真理雄  尊師の伯父。慶應大学経済学部卒業。元住友電気工業取締役副社長、住友電工デバイス・イノベーション株式会社監査役。 菅谷英代  1948年3月17日誕生。真理雄の妻。河野一英長女。尊師の母・唐澤厚子の姉で尊師の伯母。慶応大学法学部卒。 【菅谷隆介】 東京帝国大学経済学部卒業。日本興業銀行副頭取、新日本証券副会長・会長、新日本証券株式会社相談役、早期胃癌検診協会会長を歴任。 日本興業銀行企画室長の頃、過剰株式の買い上げ機関の設立や経営危機に陥った山一証券を救うために日銀特融など一連の再建築を打ち出す際に、裏方として活躍した。 日本興業銀行副頭取の頃、米ディズニー社との契約が一週間前と迫っていたオリエンタルランドの依頼を受け、「融資額が巨額になるので当行が幹事銀行になった融資団にする」と約束し、副団長として中心的な役割で東京ディズニーランド誕生に尽力した。 菅谷がディズニーランドに強い関心を持ったのは、芦屋の富裕層の息子として映画や宝塚等のエンターテイメントに親しんで育ったことと、戦後、興銀から持株会社整理委員会に出向した時に映画産業を担当したことにある。 http://www.ichiyomi.co.jp/umi/index1.html https://books.google.co.jp/books?id=IhYZAwAAQBAJ&pg=PT127&dq=%E8%8F%85%E8%B0%B7%E9%9A%86%E4%BB%8B&hl=ja&sa=X&ei=KyI_VdrhLKOMmwWKyIDYAQ&ved=0CB0Q6AEwAA#v=onepage&q=%E8%8F%85%E8%B0%B7&f=false https://books.google.co.jp/books?id=m43ewRCgV1IC&pg=PA75&dq=%E8%8F%85%E8%B0%B7%E9%9A%86%E4%BB%8B&hl=ja&sa=X&ei=Go8_Vc_cGobamgWuv4CoCw&ved=0CCIQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E8%8F%85%E8%B0%B7&f=false 1916年 10月3日、兵庫県芦屋で誕生。     神戸一中(旧制)、第一高等学校 (旧制)卒業 1941年 東京帝国大学経済学部卒業 1941年 教徒の伏見連隊に入営したが身体が弱いためすぐに帰された 1941年 日本興業銀行入行 1965年 同行企画室長 1967年 同行取締役 1975年 同行副頭取     GHQ(連合国軍総司令部)の財閥解体命令で作られた持株会社整理委員会へ出向     日本開発銀行へ出向 1980年 興銀と三井信託銀行を幹事行として協力超融資団を結成し、オリエンタルランドに融資 1982年 新日本証券副会長・会長 1989年 早期胃癌検診協会会長 1990年 4月20日、73歳で逝去 http://jpon.xyz/2000/27/59/15/2314.html 2000年版 東京都 調布市 布田 6-20-1 0424-82-4595 https://www.google.co.jp/maps/@35.645955,139.547044,3a,75y,122.62h,62.54t/data=!3m4!1e1!3m2!1sPoKzv6HvZnQkbIQq0MwuHg!2e0
【菅谷真理雄】 慶應大学経済学部卒業。元住友電気工業取締役副社長、住友電工デバイス・イノベーション株式会社監査役。 1946年 10月15日、誕生 1971年 住友電気工業入社 1999年 同社自動車部長 2001年 同社支配人 2001年 6月、同社取締役支配人、同社取締役 2002年 同社支配人(英国駐在)、スミトモ エレクトリック ワイヤリング システムズ (ヨーロッパ)リミテッド社長 2003年 同社執行役員(英国駐在)、スミトモ エレクトリック ワイヤリング システムズ (ヨーロッパ)リミテッド社長 2004年 同社常務取締役、エレクトロニクス営業本部長、自動車事業本部副本部長 2006年 6月23日、東洋物産常務取締役 2006年 6月28日、住友電気工業常務取締役、東京事務所、自動車営業室、関信越営業部、関東営業部、北海道・東北営業部統轄 2007年 同代表取締役専務取締役、東京事務所、東京営業部、東海営業部、自動車営業室、関信越営業部、東日本営業部統轄 2008年 同常務取締役、営業部統轄、自動車に関する特命事項担当、九州営業部、中部営業部、北陸営業部統轄 2009年 同代表取締役副社長、開発部、自動車・輸送機営業推進部、東京事務所、東京営業部、 関信越営業部株式会社舟越製作所 代表取締役 2010年 光ファイバーケーブルカルテル事件 2010年 同事件の責任追及等の訴え提起請求書に被告として名を連ねる 2013年 住友電工デバイス・イノベーション株式会社監査役 2014年 住友電工カルテル、5億円支払いで和解 光ファイバーケーブルカルテル事件により左遷されたと見られる。 当時の役員ら22人に同額の損害賠償を求めた株主代表訴訟で、役員らが会社に5億2000万円の解決金を支払う和解が7日、大阪地裁で成立した。 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG07050_X00C14A5EA2000/ http://www.sedi.co.jp/about/index.php http://www.technoassocie.co.jp/ir/pdf/yuuka79.pdf https://toushi.kankei.me/c/3617/d/0070HU6K https://toushi.kankei.me/c/3617/d/S0001SSK http://www.uforeader.com/v1/se/E01333_0050AUU9_9_71.html https://post.tokyoipo.com/tdnet/20090325/200903251300/20090325033781/140120090325033781.pdf http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=10&cad=rja&uact=8&ved=0CFIQFjAJ&url=http%3A%2F%2Fwww.media-club.jp%2Fmedia%2Fnews%2Fbacknumber%2Fjinji060519-13.html&ei=ouVVVdrwL4bEmAXFgIGgBA&usg=AFQjCNH3-HGKHEx0dw7dQobCKR5YskgbDQ&sig2=-_Nb8BoEhLVjhzJkqaJFog&bvm=bv.93564037,d.dGY http://ke.kabupro.jp/tsp/20070621/161502f0_20070621.pdf http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:iGxPlfBTxLAJ:kabunushinokenri.com/common/fckeditor/editor/filemanager/connectors/php/transfer.php%3Ffile%3D/uid000003_E4BD8FE58F8BE99BBBE5B7A5EFBC9AE382ABE383ABE38386E383ABEFBC9AE68F90E8A8B4E8AB8BE6B182E69BB82E706466+&cd=4&hl=ja&ct=clnk&gl=jp http://www.sedi.co.jp/about/index.php
【村井家】 村井林七 一英の母方祖父。河野一三の妻・房の父。 村井啓助 林七の子。河野一英の母・房の兄。尊師の曾祖伯父。村井証券(現・ライブスター証券)の創業者で同社社長。朝鮮京城府民団議員、啓和製作所社長、更栄証券取締役社長・会長を歴任。 村井進 啓助の長男。神奈川県庁に勤め、日本建築センター常務。 村井啓三郎 啓助の次男。慶応大学法学部法律学科出身。法学博士。三恵証券会長。 村井恒雄 啓三郎の子。日東証券勤務。妻は第一生命保険社長・塚本亮一二女の京子。 村井潤三 啓助の三男。立教大学出身。更栄証券会長。 村井豊 啓助の四男。慶応大学予科。
【村井啓助】 http://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-11832249296.html このブログから河野房が明治28年生、父親(尊師高祖父)が三重県の村井林七ということが判明しました。 記事からかなりの数の尊師の血縁者が分かります。 サヤ取りと日歩稼ぎで大成の村井啓助氏 鍋島高明・市場経済研究所代表 2012/2/18 15:00日本経済新聞 電子版  相場の盛んな三重県出身で、兜町暮らしが20年に及ぶが、投機、思惑はいっさいやらないという村井啓助。東京株式取引所の一般取引員の看板を取って話題を呼ぶ。昭和9年のことだ。当時の有力経済誌「実業之日本」は村井を取り上げた。  「投機万能、売った、買ったの兜町で、これはまた珍しくも投機、思惑は絶対にやらぬというモットーの取引員がいる。村井啓助君である。この20年間にわたる兜町生活を通じて、彼はほとんど相場を張ったことがないという。彼はどこまでも、サヤ取り、ないし日歩稼ぎ一点張りである。従ってその利益は、1銭、2銭という少額に過ぎないが、その代わり、ドカンと損をして後退することはない」  相場の高騰、一転してのガラに一喜一憂している連中を尻目に、平然と利ザヤ稼ぎを貫徹する。そして、「ちりも積もれば山となる」のことわざ通り、100万円の資産をこしらえた。村井は浮沈の激しい証券業を銀行経営と同様、「理屈のあるものにしたい」とし、こう語る。  「一般の人がややもすれば、われわれ同業者を“株屋”といって、飲み食いにぜいたくして金銭を乱費する階級のごとく理解しているようですが、私は株式取引なるものは合理的経営であり、堅実な意義深い職業であることを知らしめたい念願で、事業を経営してきました」  村井啓助は三重県亀山町の旧家に生まれ、少年時代は“おんば日傘”でなに不自由なく育てられた。28歳のとき、当時銀行を経営していた旧亀山藩の重臣たちに見込まれ、タイに渡り、バンコクでチーク材を輸入するため事前調査に当たる。ところが、銀行がつぶれてしまったため、村井は一転朝鮮を目指す。明治38年、31歳のことだ。当時、すでに開発熱が高かったにもかかわらず、地価はまだ安かった。「この時まず人より先に開発しようとしたのが彼だ。まことに少壮、覇気と独創に富む彼の面目がここにもよく現れている」(同)。  朝鮮に渡り7年、20町歩を越す農業地と1万坪強の住宅地を経営するに至る。社会的地位も上がり、京城民団議員など公職にも就いた。ところが大正3年、父の訃報で帰郷、家督を相続する。そのころ、朝鮮の開発も一段落していたし、小作人の待遇問題もやかましくなっていたこともあって内地に残ることにする。将来性ある仕事ということでいろいろ思案のあげ句、転身したのが証券業者であった。 そして、昭和12年7月14日、日中間の風雲告げるや、陸軍省に杉山元陸相を訪ね「今は非常時です。お国のために使っていただきたい」とポンと2万円差し出した。村井は語る。  「私は国家非常時の際、軍民一致の必要はもちろん、一朝事ある場合は全財産を投げ出して国家  村井啓助の名は「東京株式取引所五十年史」には出てこないから、売買高はそれほど多くはなかったとみられる。村井が独立する前、属していた三協商会は店主が萩原六三郎といい、府下荏原郡の大地主で資金力は相当のものだったという。村井は当時の兜町では孤高の人だったかもしれないが、地元の伊勢新聞は応援のエールを送る。  「二十余年前に上京、帝都株式界に乗り出し、孜々(しし)として努力し、脇目もふらず、株式取引業に精通した結果、業績は日を追うて上がり、兜町における多くの同業者の範として絶大の信用を得ている」 =敬称略 信条 ・株式取引は合理的経営であり、堅実な意義深い職業であることを世間に知らしめたい ・生来まじめで胆斗の如き度量と不撓(ふとう)不屈の気に満ちている快男児(伊勢新聞社) ・苦労人だけに顧客に対する親切はいうまでもなく、店員に対しても親切で、待遇もいい(実業之日本) (むらい けいすけ 1875~没年不詳)  明治8年三重県鈴鹿郡亀山町(現亀山市)で村井林七の長男に生まれ、亀山高等小学校を卒業後、宇治山田市(現伊勢市)の拓殖塾で漢学を学ぶ。同42年朝鮮龍山水産取締役に就任。大正4年上京し、東京株式取引所の取引員・中島卯三郎の経営に参画、中島没後に三協商会を興し、東株現物組合員となる。昭和2年三協商会は萩原六三郎名義で東株一般取引員の免許を得、同9年、三協商会から独立し、村井啓助商店を立ち上げ東株短期取引員となり、その後、東株一般取引員となる。
【山田カズコ】 尊師の従姉妹。唐澤吉信の娘(洋の妹か姉)の娘。旧姓田中。 2013年4月、唐澤貴洋のFBの家族の欄に「Kazuko Tanaka」という人物が登録されているのがなんJ民に見つかり(すぐに削除されたが)、彼女のブログが発見され親戚の家族構成(唐澤家・田中家の男子の人数)が開示された。 2014年に結婚し、姓が「山田」に変わった。川崎市在住。 写真:http://www.shoutwiki.com/w/images/krsw/c/c3/%E7%94%B0%E4%B8%AD.jpg 田中カズコさんのブログより 上京してきた従妹と一緒に伯父さんの家に遊びに行きました。 家に行ったのは15年振りくらいかな。 すっごく久しぶりなのに、おじさんもおばさんもあたたかく迎えてくれて嬉しかった 昔の思い出やお互いの近況を話しているうちに夕食の時間になったのでゴハン食べにいこうかと言ってくれたけど、 せっかくだから何か作るよ、ということでみんなで近くのスーパーに買い物に行き、従妹と一緒に作りました。 メニューは鶏肉のトマト煮、海鮮パエリア、レタスとキノコのレモンソースサラダ。 伯父さんのとこは男の子一人だからかな、 姪が2人でゴハン作ったのですごく喜んでくれました よかった� でももっとレシピ増やしとこう 従妹が作ってくれたパエリアが絶品 http://img.emachi.co.jp/diary/00000677304-00000499920.jpg http://www.facebook.com/kazuko.tanaka.520 http://blog.emachi.co.jp/sasame78/diary_detail/00000860853/ 連休初日に芝桜を見に秩父の羊山公園へ。 ちょうど満開でとってもキレイでした☆ まるで夢の中にいるような雰囲気で癒された�(*^^*) 行きは事故渋滞で到着がおくれたけど、 帰りは順調に流れていました。 行きの渋滞がなければ長瀞のライン下りができたのに。。ちょっと残念。 帰りはバームクーヘンとシュークリームを買って夜中に食べちゃいました。 http://img.emachi.co.jp/diary/00000860853-00000651181.jpg 【親戚の書家】 素心若雪を唐澤貴洋に授けた人物とされる。 >素心若雪は,親戚の書家の方にいただいた中国における2000年前の言葉です。降ったばかりの若い雪のような清廉な心を持つという意味です。
>>9 感謝。
>>7 これも明大つながりか。 田中 斉(たなか ひとし、1897年(明治30年)10月4日 - 1966年(昭和41年)12月27日)は、愛知県出身の政治家、実業家。 経歴 1920年(大正9年)、明治大学専門部商科卒業。 1923年(大正12年)、ジョンズホプキンズ大学大学院修了。 新聞業界でキャリアを積み、1942年(昭和17年)まで新愛知新聞(中日新聞の前身)の主幹兼編集局長、国民新聞(東京新聞の前身)の経営にあたり、プロ野球大東京軍オーナー、名古屋軍代表も兼任した(大東京軍は国民新聞社を母体に創立され、国民新聞社は新愛知新聞社の支配下におかれていたため、名古屋と大東京の2球団のオーナーを兼務することとなった)。 1947年(昭和22年)、愛知2区で日本社会党より衆議院議員に当選するが公職追放となり辞職。 1956年(昭和31年)、明大教授に就任。後に商学部長となる。 1966年(昭和41年)12月27日死去。69歳。
田中斉 たなか-ひとし 1897-1966 大正-昭和時代の新聞人,経営学者。 明治30年10月4日生まれ。明大卒。ジョンズ-ホプキンズ大大学院修了。昭和17年まで「新愛知新聞」(「中日新聞」の前身)の主幹兼編集局長,「国民新聞」(「東京新聞」の前身)の経営にあたる。プロ野球東京軍オーナー,名古屋軍代表も兼任。22年衆議院議員に当選するが,公職追放となり辞職。31年明大教授。昭和41年12月27日死去。69歳。愛知県出身。旧姓は鈴木。
>>1ちゃんどんだけ有能なんや この情報をもとに一族の闇でも追及できないかな、過激な事実追及は恒心路線の一つになれると(間)思っております
河野一英が田中斉の秘書をやってたと書かれてるのは 河野一英教授年譜・著書論文目録 (河野一英教授,中野敏雄教授古稀記念論文集)�� と 証言占領期の左翼メディア https://books.google.co.jp/books?id=3J8vAQAAIAAJ と 大原社会問題��究所雑誌 https://books.google.co.jp/books?id=49yZAAAAIAAJ どっかに田中斉は一英の恩師だって書いてあったけどソースを忘れた
ファミリーヒストリー唐澤貴洋回も近い
>>34 証言占領期の左翼メディアに書いてあったわ 明治大学時代の教え子で、田中斉さんが代議士になったときの国会秘書をなさり、 その後明大講師、大東文化大学経済学部長などを… 一英が戦後東京実業学校に就職してんのは典男と同様コネだろうな
あと河野一族の意外な闇はモトキ商事 28 グナマーナ正大師 2015/05/02(土) 17:48:42 ID:rbzOhStE 趣旨の異なるスレに書き込んでしまい申し訳ございません。 僕の組二七年八三組はひょんとしたことから1Aの自分語りを時系列順に並べることになりました。 http://i.imgur.com/IeMzUqv.jpg http://i.imgur.com/bMhLmrv.jpg http://i.imgur.com/dNXCKec.jpg 英二:山形日本電気顧問→山形日本電気顧問→元山形日本電気顧問 三郎:東京都勤務→病院技師→故人 喜久:(無し)→(無し)→故人 典男:東急建設常務→世紀東急工業社長→世紀東急工業顧問 櫻樹:(無し)→モトキ商事社長→モトキ商事社長 六朗:(無し)→(無し)→モトキ商事社員 社長の70歳過ぎた弟がヒラ社員というのも凄いなぁ。 モトキ商事 ペーパーカンパニー
唐澤姓は群馬県吾妻郡近辺と長野県上伊那郡箕輪町近辺に集中しています この二つは別の来歴を持っています http://jpon.xyz/m/2012/%E5%94%90%E6%BE%A4 http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2888933.html 吾妻唐澤氏(群馬県吾妻郡)小笠原氏の後裔と伝える。同地では千葉県館山市の金余氏が京都府京都市を経て来住したとの伝もあり。 伊那唐澤氏(長野県上伊那郡)富沢氏の分流が創姓したと伝える。
>>38 唐澤吉信は東京出身なのでルーツは不明 https://books.google.co.jp/books?id=oiE1AQAAIAAJ&q=%E4%B8%8B%E7%94%B0%E7%94%BA%E3%80%80%E6%B8%AF%E5%8C%97%E5%8C%BA%E3%80%80%E5%90%89%E4%BF%A1
インド洋戦記(一英の自分語りの聞き手が著者) https://books.google.co.jp/books?ei=DvxBVbyhIee2mQWagYHQCg&hl=ja&id=aKsdAQAAMAAJ&q=%E6%B2%B3%E9%87%8E%E4%B8%80%E8%8B%B1 >頭の >毛髪の状況をみると、少末吉博、豊田猛、浜倉大金、西野正、羽毛田一郎、四期口竜雄 >、二期の平田政雄、三期では河野一英、寺前章、(医大尉)、小熊近之助元教官(館砲)の... 海軍学徒兵、 硫黄島に死す https://books.google.co.jp/books?ei=2f1BVdjqCcPGmAXrloGIAw&hl=ja&id=pW4zAQAAIAAJ&q=%E6%B2%B3%E9%87%8E%E4%B8%80%E8%8B%B1 >陸戦班では 河野一英(明大)がェ(北大)が占守島、東条永代見(立命大)がヤップ島、吉本華門(明大) >、中峯卓(熊本高工―現熊本対空同班の久保井勝雄(大商大―現大阪市大)や井関����...
一族からは若干ずれるが一英をしごいた教官について http://i.imgur.com/WytfOor.png >二〇名の私たち特別攻撃隊要員(陸戦)は二ヶ月間も佐藤清忠少佐という猛烈教官によって、 >朝から晩まで叩かれ訓練を受けました。 https://books.google.co.jp/books?id=_pIdAQAAMAAJ&q=%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%B8%85%E5%BF%A0 >しかし何といっても教官佐藤清忠少佐の印象が強い。この教官の名は「館山には、朝食 >ぬきで四十キロ歩く教官がいるそうだ」と、東京湾をへだてて、横須賀海兵団にまで響い >ていた。館山砲術学校入校の日、この教官が台上に立ち、いかつい顔つきで陸式敬礼����...
ほぼ話題にならなかった河野彰人は河野一族ではありませんでした。とり取り http://whois.nic.ad.jp/cgi-bin/whois_gw?key=AK652JP b. [氏名] 河野 彰人 c. [Last, First] Kawano, Akihito f. [組織名] 株式会社リバフィー通研 829 グナマーナ正大師 2015/04/28(火) 16:14:15 ID:EVfNDAKo 官報 https://books.google.co.jp/books?id=ZtUaAQAAMAAJ&q=%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%B8%82%E9%AB%98%E6%B4%A5%E5%8C%BA%E5%AD%90%E6%AF%8D%E5%8F%A3421%E3%80%80%E6%B2%B3%E9%87%8E&dq=%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%B8%82%E9%AB%98%E6%B4%A5%E5%8C%BA%E5%AD%90%E6%AF%8D%E5%8F%A3421%E3%80%80%E6%B2%B3%E9%87%8E&hl=ja&sa=X&ei=Jis_VZSEO-bAmAXpq4GICg&ved=0CCoQ6AEwAA 円平成 9 年(へ)第 16 6 5 号富山県射水郡小杉町下条 1070 番地申立人有限会社 土台興業代表者代表取締役土合功公示催?期日 ... 会社取締役社長河野典男受取人 申立人最終所持人申立人平成 9 年(へ)第 16 6 6 号神奈川県川崎市高津区子母口 421 ... 株式会社リバフィー通研 http://rft.co.jp/html/company.html 代表取締役 河野 彰人 神奈川県川崎市高津区子母口421 電話通信設備・無線通信設備・ネットワーク設備・電気設備等の建設工事を主体として事業を展開しております。 事務部門、建設部門にかかる機器の販売、個別仕様品製作を提供販売する事業を展開しております。 南武線武蔵新城駅南口を出て、川崎市営・東急バスで岩川下車。徒歩約2分 平成16年 3月 宅内工事部門を有限会社三晃電設に営業譲渡 有限会社三晃電設 http://www.sanko-ele.com/profile.html 東急車輛・東急建設・中堅工務店・建設会社の受注開始 東急車両電設部 東急グループ駅舎内電気設備工事(大型駅舎数棟) 東急建設 田園都市線沿線分譲住宅電気・防犯設備工事(延べ100棟 リバフィー河野彰人は河野典男の親族かな? 典男は元世紀東急工業の社長、息子(疑惑)の茂典が東急建設東北支店長… ちなみに唐澤洋も世紀東急工業や東急建設に監査で関わってるのでコネコネ一族なのは明白
950 グナマーナ正大師 sage 2015/04/25(土) 01:33:35 ID:wa3gkMS6 趣旨の異なるスレに書き込んでしまい申し訳ございません。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813058/112 明治9年(1876年)に東京高等師範学校小学師範学科を広島県の河野一造(当時20~27歳)という男が卒業しておりました。 「河野一造は河野一英の父の河野一三の父なのかどうか」 をどなたか特定していただけませんでしょうか。 お手数をおかけして申し訳ございません。
今後追求したいもの ・一族全員の顔写真 ・まだ見つかってない他の親族や先祖、既に確認されてる親族の詳細な情報 ・厚史が存在するかどうか、事件について ・唐澤家や河野家の墓 ・河野茂典が本当に典男の息子かどうか ・一郎の死因 ・沙季が出龍家に居候してる理由 ・直子が別居してる理由 ・モトキ商事の実態、六郎ニート説 ・創価文芸部員の喜久の作品 ・吉信の正確な住所、尊師が昔住んでた家 ・一三は朝鮮で何をしていたのか ・親戚の書家の正体
>>44 >・厚史が存在するかどうか、事件について 138 名前:横向けば尊師[] 投稿日:2015/05/15(金) 20:16:24 ID:4wfZetSk [1/2] http://i.imgur.com/RugXZ6f.jpg http://i.imgur.com/X8ntY5u.jpg 転載ですが、これはどうなのでしょう。
>>43 これだけだと情報が少なすぎて何とも言えんなぁ 河野姓と一の字と出身地と東京の学校というのは当てはまるところやけど珍しい姓ではないし 一英が七人兄弟の長兄だから一三も1890~1900年には生まれてると思うし歳の差も引っかかる もっとも男なら年取ってても子供は作れるから一三が一造の40歳以降の子供でもあり得なくはないけど
>>45 いかにもガチっぽいけど一ヶ月半の重症を負って入院してる人間がそう簡単に自殺出来るとは思えないなぁ 入院してたら母親も付きっきりでいるだろうから親にも言えず自殺というのも何だかよく分からん
宇田川警備隊って関東連合との関係なんだな 弟世代のS54に樺沢っておるけどまあ関係ないか
>>1君の熱心な教徒ぶりに涙を禁じ得ない
マリオとかいう人おらんかったか
「宮沢賢治・その理想世界への道程」の河野喜久は別人 一三の娘の喜久は大正15年生まれ http://www.kanda-zatsugaku.com/111104/1104.html >大正9 年6 月、二番目の妻章子が白秋のもとから去って間もなく、 >小田原に住む美術評論家河野桐谷・喜久夫妻から、 真世界の喜久も桐谷と一緒だから別人 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000644616-00 アララギの河野喜久もかなり疑わしい 名前の前の「芦屋」は住んでる地域なので(他の人を見ると伊勢崎とか東京とか書いてある) 独身でいながらわざわざ芦屋住まいという妙なことになる それだったらこのスレの24の方がまだ自然 859 グナマーナ正大師 2015/04/28(火) 17:34:14 ID:EVfNDAKo 河野喜久 http://kosenrufu.ldblog.jp/archives/1565479.html >河野さんは、学会の文芸部員として活躍された娘さんの勧めで、晩年に学会員となられた。 宮沢賢治・その理想世界への道程 https://books.google.co.jp/books?id=8XPiAAAAMAAJ&q=%E6%96%87%E8%8A%B8%E3%80%80%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%96%9C%E4%B9%85&dq=%E6%96%87%E8%8A%B8%E3%80%80%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%96%9C%E4%B9%85&hl=ja&sa=X&ei=m0M_VaOCNYbamAXs-4CgBA&ved=0CCAQ6AEwAQ 開始 V 、六月一日付『天業民報』(第三千十六号)に〈国芸学院に就ての要領〉の広告が 、国性文芸会主田中巴之助、国芸学院総裁 ... 1 常任講師は、智学のほかに長瀧智大、 志村智鑑、河野桐谷、河野喜久、田中蓮代で術料は教外者を含めた専門家の協力に ... 新世界 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2221244 <聖伝童話>亀の甲のお船 / 河野喜久 / p45~48 アララギ 第79巻、第1~6号 https://books.google.co.jp/books?id=ZOk2AAAAIAAJ&q=%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%96%9C%E4%B9%85&dq=%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%96%9C%E4%B9%85&hl=ja&sa=X&ei=vkE_VZWKAeXamgXP7YDwCQ&ved=0CCUQ6AEwAg ... つつ行きたりし大津を思ふ舞ふ風花に 0 芦屋中田万里子昨日より今朝はひときは黄 にさえてミモザの花に雨ふりつづく〇芦屋河野喜久いつの日の忘 515 にや岡田先生 六方の手振りあざやかなりき痛みこやる一日沁々看取らるる人の心を初めて知りぬ〇
唐澤一族を辿っていくと旧軍の特殊部隊やら天皇まで出てきて本当に飽きないな
>>28 なんか六尺兄貴みたいな文章で草
ニートだなんだ言うけど あんだけ金持ちな一族なんだから遊び人はいるでしょう
>>44 この中だと唐澤家の墓開示は早く辿り着きたいよな 墓さえ見つけてそこに厚史の名前と没年があれば厚史と事件の存在が確定になっていつの事件か検討しやすくなって通った学校もわかるかもしれん 万が一墓に名前なくても尊師がとんでもないガイジであることが発覚して盛り上がるしな
なんでこんなレジェンド一族からあんなゴミクズカスが生まれるんや なんかの間違いや悪夢や
>>51 すばらしい教徒の方がいると思った一瞬でした。 創価系の文芸本でもあるんやろか
既得権益の塊みたいな尊師ムカつく
http://i.imgur.com/1wUSFGr.jpg >柔道は講道館四段の猛者である。 一英強すぎィ
786 名前:グナマーナ正大師[] 投稿日:2015/05/16(土) 11:48:17 ID:DZw1Qro2 母方の祖父   河野一英 明大商学部卒 母方の祖母   河野喜代 明大商学部卒 母方の祖母   河野波子 明大法学部卒 母方の大叔父 河野典男 明大商学部卒 父方の祖父   唐澤吉信 明大商学部卒 事務所創設者 坂本雄三 明大法学部卒 明大教授 依頼人の父   長谷川満考 明大卒 Orpheus開発者 嵯峨山茂樹 明大教授 はっきり言って明大関係者の数が異常だ。
唐澤 貴夫Takao Karasawa 略歴 昭和57年 慶應義塾大学法学部卒 平成2年 弁護士登録(42期・第二東京弁護士会)、兼子・岩松法律事務所入所 平成8年 第二東京弁護士会常議員 平成16年~18年 財務省関東財務局証券検査官 平成18年~19年 オクト株式会社 代表清算人 平成18年~ 慶應義塾大学医学部倫理委員会委員 平成18年~ 慶應義塾大学ヒト胚性幹細胞に関する倫理専門委員会委員 平成18年~ 慶應義塾大学総合研究推進機構研究倫理審査委員会委員 http://www.kanekoiwamatsu.com/lawyers/karasawa.html 関係無いやろけど一応
典男の「その父の弟分が校長をしていた東京実業学校に進む。」について 典男が東京実業学校に進んだのは昭和16年(1941年)のこと 当時の校長は上野熊蔵 http://www.tojitsu.ed.jp/1/outlineofschool/ >1939(昭和14)年上野熊蔵第3・5代校長に就任。 上野熊蔵は元東京朝日新聞記者 http://www.shinzansha.co.jp/book/b194532.html 上野熊蔵は馬を二頭飼っていた http://www.city.ota.tokyo.jp/kamata/ts_kamatanishi/jouhoushi/kamanishi17dai54gou.files/kamanishi17dai54gou.pdf >『あれは昭和十九年頃だったかな。東実の上野熊蔵校長の馬が二頭いてね。 >多摩川乗馬クラブというのがあったんですよ。 上野熊蔵校長については典男が他人語りをしているらしい http://www.tojitsu-dosokai.com/img/kaihou/kaihou_mokuji2.pdf >上野熊蔵先生の思い出 第21期 河野 典男 上野熊蔵と河野一三との交友関係については残念ながら見つけられなかった
上野熊蔵は婿養子 https://books.google.co.jp/books?ei=kKNYVe60C9Te8AXsoIHoAg&q=上野熊蔵 >紛争は長引き、上野清は孤立状態に陥った。そこで女婿の上野熊蔵(後の東京実業 >学校校^ )が間に入って説得につとめ、 >職能教育については頤天中学教諭大淹譲次から実業学校の新設問題について相談が >あったり、女婿上野熊蔵から「役立つ人材の養成」のための実業教育に関する意見具申 >を受け、 典男による上野熊蔵校長の他人語り http://www.tojitsu-dosokai.com/img/kaihou/kaihou14.pdf 一英生誕の秘密も書かれている
>>63 はっきり言ってネットでこれだけ情報を拾ってこれる貴職は異常だ。 >私の父がお手伝いして目蒲線目蒲液近くの現校舎に学舎を建設されといい、 一三は何者なのか。どうやって財を成したのか、何故これだけの交友関係があるのか。
https://books.google.co.jp/books?id=F46aAAAAIAAJ&q=中野正剛+京城 >中野正剛略歴明治四二年早稲田大学政治経済学部卒。明治四二年東京日日新聞に >入社、同年一二月東京朝日新聞に転社、四四年機構改革により大阪通信部に移る、 >大正二年京城特派員、四年欧州留学、五年大阪朝日新聞退社、 中野正剛が京城にいたのは1913~1915年ということになる 隣の家が中野家だったのだから、当然一三もその頃から朝鮮にいたということになる 典男が言う「同年同月同日」(一英の誕生日なので1920年8月16日)には中野正剛は衆議院議員になっている(同年5月10日に当選した)ので、 河野家は朝鮮で、中野家は内地で、それぞれ子供が産まれたと考えるのが妥当
今までさらっと読み流していた、 「大正九年八月十六日朝鮮京城市本町平田百貨店社宅で出生し、1ヶ月後に広島県を経て東京都大田区田園調布本町三十六番地の十二号(本籍地)に移住し成長した。」 という記述、よく考えてみると平田百貨店の創業は大正15年(1926年)で一英が産まれたずっと後だった http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=432914&id=54676253 >しかし朝鮮は日本による資本主義が真っ最中だった1920年代、京城に進出していた >平田商店が大正15年(1926年)営業を開始するとデパート時代が開かれました。�� http://www.geocities.jp/yk_namiki/stock/050916/japan_korea_history/contemporary/05-03j_hayashi_j.pdf >大正15年には、平田屋が三中井と同じ本町通り1丁目の並びに平田百貨店を開店した。
>>38 尊師とガッツは親戚だった…!?
「進出していた」って書いてあるから社宅を置くような何かはあったんやないか?流通とか
茂典は本当に自殺なんやろか 全く関係ないのにあの男が関わっている気がする
>>66 つまりどういうことなんだ…?
>>70 >>68も言うように、前身の平田屋社宅か何かがあったと思われる 一三は広島から一旗揚げに朝鮮に渡ったんじゃないかな
1Aと川上哲治って同世代なんやね テッツは既に亡くなっちゃったけど1Aは何歳まで生きるかな
素晴らしい>>1がいると思った一瞬でした。 >>1のレスを元にしてwikiに記事を作るナリよ
河野一三が手伝ったという東京実業学校移転について https://books.google.co.jp/books?ei=ZxxZVaGfK4Py8QWyt4HYAg&hl=ja&id=ztsHAQAAIAAJ&q=土地 >長久保豊と交渉し、五千坪を坪七円四〇錢で契約、ったが、��金不足で未着手であった >のを、組合長の土地は嶺��耕地組合の所有で、耕地整理促進中であ森区調布嶺町に >広い畑地があることが分った。このったが、その附近の多摩川沿いで、電車線に近い大 http://d.hatena.ne.jp/oyaji141/20070914 >昭和8年目黒蒲田鉄道の沿線に良い土地があるという話があり、理事など数人で実地検分したところ、 >誠に学校を建設するには適地であるとの判断が下る。 > その土地の所有者は嶺鵜耕地整理組合であった。当時組合は資金不足で耕地整理を中断していた。 >組合長の長久保豊氏と交渉の結果、坪7円50銭で5千坪購入する契約を結んだ。それが現在の校地である。 一三は嶺鵜耕地整理組合関係者か?
一三・田園調布関連の時系列メモ 1915年 遅くともこの年までには朝鮮に渡っている 1918年 田園都市株式会社設立 1920年 生後1ヶ月の一英を連れて帰国(の可能性あり) 1923年 目黒ー(現在の)沼部間開通、田園調布分譲開始 1933年 東京実業学校の移転に関与
大田区史に河野一三という文字が載っているらしいがこれだけだと何がなんだか分からない https://books.google.co.jp/books?ei=5CZZVcXkAYv28QWYyYHoAg&hl=ja&id=iuc4AAAAMAAJ&q=河野 >牛井武治河野一三落合蜻行(退)加藤直輔)長久保昌治西村直次(退)加藤八重子井上
>>71 サンガツ 平田知恵人の荒物屋「平田屋」が平田百貨店の前進だから一英の言う「平田百貨店社宅」に当たるっぽいね 平田屋開業は1906年だから一三が関わっていたのはこの時か http://www.hayashihiroshige.jp/assets/7_comment.pdf 平田百貨店の主人、平田は、米国のカリフォルニア州サクラメントで20数年間雑貨商を経営したことがある。 http://s.webry.info/sp/nemuihito.at.webry.info/201403/article_2.html この他、政府も全国の商人に、「日本人が朝鮮に進出して支那人に代わって商圏の拡大を図る様に」と呼びかけています。 それに呼応して漢城に移住した商人は多く出ました。 京城に於ける日本人経営の4大百貨店と呼ばれたのは、三中井と三越、そして平田百貨店、丁子屋です。 三中井、三越と並び、平田百貨店と丁子屋はこの時期に進出しました。 平田知恵人は1906年、漢城の本町通りに荒物屋「平田屋」を開業しています。 http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/05-03j_hayashi_j.pdf 同じく39年に平田知恵人が三越と目と鼻の先の本町通り1丁目に平田屋荒物店を創業した。 大正15年には、平田屋が三中井と同じ本町通り1丁目の並びに平田百貨店を開店した。 木造2階建て、一部3階建てで延べ800坪の大きさである。 創業者の平田知恵人が欧米視察をおこない、そこでディスカウント・ストアの隆盛を目のあたりにしたために、そのAI移転による百貨店化を決断したのである。 http://s.webry.info/sp/nemuihito.at.webry.info/201403/article_5.html 余談ながら、平田百貨店は三中井と殆ど隣り合わせにあったのですが、木造2階建て(一部3階建て)延800坪の店でした。 日用品・雑貨及び食料品を大量に仕入れ、安く売ることで京城府民の人気を博していました。 つまり、今で言うディスカウントストア、例えばドンキホーテとかの業態に近いものです。 本町通り商店街のプライス・セッターとなって、府民を本町通りに呼び寄せる吸引力を発揮しました。 創業は1906年で、創業者の平田知恵人がささやかな荒物商店を開業したことに始まります。 この知恵人が欧米視察を行い、そこでディスカウント・ストアの隆盛を目の当たりにして百貨店化に踏み切ったようです。
全国信用金庫名鑑 https://books.google.co.jp/books?id=N0YfAAAAMAAJ&q=長久保昌治 ..>. 検査部同課長本島武雄同課長深沢和見同次長岸田宝三審査部長大井喜市総務 >部長^木村庸夫響 X 部総�� V 住宅金融 X 長加藤賢治本部監事内田正��長久保信勇 >長久保昌治秋山��兵衛鏑木政五郎岩井文太郎理事野村好治落合お行鬥會伝造(業務 大田区史 https://books.google.co.jp/books?ei=5CZZVcXkAYv28QWYyYHoAg&hl=ja&id=iuc4AAAAMAAJ&q=河野 >... 牛井武治河野一三落合蜻行(退)加藤直輔)長久保昌治西村直次(退)加藤八重子井上 >誠)門倉僻造(退)吉松貞禰(退)直井文例)松井勝極木俊亮千井富美枝 藤野一一士津野 >坪古り一掘高鈴高長早. 田椅端 l��... 長久保昌治と落合×行(「落合お行」と「落合蜻行」 )と門倉伝造( 「鬥會伝造」と「門倉僻造」)が共通しているので同組織? 河野一三宅界隈の信用金庫といえば東調布信用金庫で、最近でも長久保一族が理事長やってたので、 大田区史の氏名一覧は東調布信用金庫のもので、河野一三は理事か何かだったということかな?
http://www.city.ota.tokyo.jp/gikai/archive/nenpou/25nenpo.files/25nenpo_06rekidaisanyaku-yosan-jimukyoku.pdf 門倉伝造(傳造)も吉松貞弥(貞彌)も後に大田区議会議長・副議長を務めた地元の名士
河野一英が一商同窓会顧問という忘れられがちな情報 http://isshou.ciao.jp/pdf/H26yakuin.pdf もしかすると同期が一英の他人語りしてくれてるかもしれない http://isshou.ciao.jp/pdf/shincyomei3.pdf
>>75 京成電鉄創立百周年記念企画(2) 「両ゴトー」と渡り合った男 http://bokukoui.exblog.jp/11433804/ >河野通は、五島慶太の経営する目蒲電鉄の前身となった田園都市会社、つまり高級住宅地の代名詞である田園調布を作った会社の、支配人だったのです。 >ところがここで関東大震災が起こり、これは郊外への移住を促進したので、田園都市会社や目蒲電鉄にとってはむしろ好機となったのですが、 >結局河野はトカゲのしっぽ切りに遭って田園都市会社を解雇されてしまいますが、 >かくて、五島慶太の前にその地位を追われた後藤国彦と河野通が、どこでどう出会ったのかはよく分かりません。河野も大分県出身なので、大和田同様同郷の縁であったのかも知れません。 >とにかく、河野は1929年に成田鉄道の専務となり、1937年には京成の監査役にも就任しています。 >かくて、株式持ち合いによる、後藤の京成経営権把握の要となった成田鉄道ですが、河野通は1942年、成田鉄道の社長に昇格します。 >ちなみに、やや時代が下って1950年版の『株式社債年鑑』によると(敗戦直後の資料が見つかりませんので)、京成の筆頭株主は、71,644株を有する河野通と記載されています。・・・成田鉄道の株を手に入れたのでしょうか、数的にも近いし。 >『土地の神話』には、河野が五島慶太の自伝を読みながら「こんなのは嘘だ」と洩らした、というエピソードが記載されています。五島の踏み台にされた河野は、後藤を踏み台に、五島と並ぶ大手私鉄のトップに上り詰めようとしたのです。 田園都市会社、河野通という人物がいるようだけど大分県出身と書いてあるな 田園調布・目蒲・東急・一三と親しい五島慶太・東急電鉄・コネ入社の河野典男・河野姓…パズルのピースは揃いに揃ってる 一三は広島出身だと思ってたが田園調布に移るまでの間住んでいただけで、河野通が親族だとすれば出身が大分である可能性も? 京成電鉄創立百周年記念企画(1) 幻の京成第3代社長・河野通 http://bokukoui.exblog.jp/11425977/ 京成電鉄創立百周年記念企画(3) 「当分」は長かった http://bokukoui.exblog.jp/11447508/ 京成電鉄創立百周年記念企画(4) さまよえる京成 http://bokukoui.exblog.jp/11471716/ http://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=12080&query=%E4%BA%94%E5%B3%B6%E6%85%B6%E5%A4%AA >大正11年(1922) 9月2日 (目黒蒲田電鉄株式会社) 会社創立。資本金参百五拾万円。取締役に緒明圭造、竹田政智、渋沢秀雄、篠原三千郎、五島慶太、河野通。監査役に市原求、石川善太郎、伊藤欣二の諸氏就任。
>>81 河野一三と河野通を親戚ということにすると、一三と五島慶太との仲が良く、典男をコネ入社させてることがおかしくなる
ということを反論しようと必死になっていたら紳士録で河野一三を発見 >>81との出会いに感謝。
>>83 こマ???
まず前提として日本紳士録はコウノだろうがカワノだろうが「力」の項目に入れる編集方針だということ 日本紳士録32版(1928年) http://i.imgur.com/9liaWKE.jpg 1928年の大田区界隈の有力者だった河野一三さんは二人といないはず 荏原郡入新井は現在のJR大森駅近辺 そして(河野一族のものかは不明だが)株式会社モトキ商事があるのも大森駅近辺
地図で確認してみたら沼部とも近くて身が震える。 しかも分かりやすく(株)モトキ商事が載ってるな
ただ一三は1929年には「田園調布の高台」に引っ越してるはずなのが気がかり http://i.imgur.com/AqwUV18.jpg http://i.imgur.com/8DlaMdS.jpg しかもざっと調べた感じだとこの河野一さんはこの32版以外に載ってない
東京市大森區勢要覽. 第3回 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3458400/ http://kindai.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F3458400&contentNo=46&outputScale=2 調布の方面委員 受持区域 田園調布一丁目全部 住所 田園調布一ノ一、一三八 電話 四六六 職業 会社員 氏名 河野一三 http://kindai.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F3458400&contentNo=70&outputScale=1 http://kindai.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F3458400&contentNo=71&outputScale=1 地図に強芋がいたら住所を見つけて欲しいナリね >>85 http://kindai.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F3458400&contentNo=68&outputScale=1 http://kindai.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F3458400&contentNo=69&outputScale=1
>>88 田園調布1丁目1,138番地ということなら田園調布サティアンよりやや東側の辺りに思える 新井宿1019は新井宿4丁目1019だろうか?それなら佐伯邸の東側かな
河野直子田園調布サティアン追い出され疑惑について OR学会だよりNo.121を見ると1981年8月に河野一郎がコープ野村等々力に住んでいたことが分かる http://www.orsj.or.jp/~archive/pdf/bul/Vol.26_08_i.pdf つまり追い出された訳でも何でもない ついでに 河野一郎は昭和49(1974)年度はまだ早稲田の院生(27歳) http://www.orsj.or.jp/~archive/pdf/bul/Vol.19_02_108.pdf 昭和51(1976)年に中央学院大学講師になったのかな? http://www.orsj.or.jp/~archive/pdf/bul/Vol.21_06_i.pdf
https://toushi.kankei.me/search/%E5%94%90%E6%BE%A4%E6%B4%8B&p=1 有価証券報告書第32期(平成25年10月1日-平成26年3月31日) 提出日時:2014年06月17日 提出者:株式会社ひらまつ 臨時報告書 提出日時:2011年12月27日 提出者:株式会社ひらまつ 23年12月27日 第2号議案?監査役4名選任の件 鬼木昌留、江頭啓輔、北村汎及び唐澤洋の4氏を監査役に選任する。 有価証券報告書‐第42期(平成22年4月1日‐平成23年3月31日) 提出日時:2011年06月30日 提出者:ファナック株式会社 有価証券報告書‐第58期(平成22年4月1日‐平成23年3月31日) 提出日時:2011年06月30日 提出者:日本アンテナ株式会社 有価証券報告書 第62期(平成20年8月1日 ‐ 平成21年7月31日) 提出日時:2009年10月16日 提出者:株式会社稲葉製作所 有価証券報告書 第6期(平成20年4月1日 ‐ 平成21年3月31日) 提出日時:2009年06月25日 提出者:東急建設株式会社 有価証券報告書 第5期(平成19年7月1日 ‐ 平成20年6月30日) 提出日時:2008年09月26日 提出者:比較.com株式会社 有価証券報告書‐第62期(平成22年4月1日‐平成23年3月31日) 提出日時:2011年6月29日  提出者:世紀東急工業株式会社 訂正四半期報告書‐第58期第1四半期(平成22年2月1日‐平成22年4月30日) 提出日時: 2010年07月02日 提出者:ゴールドパック株式会社 四半期報告書 第60期 第1四半期(平成20年4月1日 ‐ 平成20年6月30日) 提出日時:2008年8月14日  提出者:世紀東急工業株式会社 有価証券報告書 第80期報告書 提出日時:2010年5月20日 提出者:FDK株式会社 ブルドッグソース 監査 唐澤洋(新日本監査法人) 株式会社ランド 監査 唐澤洋(新日本監査法人) 日東工器 監査 唐澤洋(新日本監査法人) アーンスト・アンド・ヤング 新規株式公開調査 唐澤洋 UNIJAPAN 監事 唐澤洋 洋の仕事とりとり
>>89 出感。
今更だが文学館管理人の洞察力は異常だ http://karasawalit.tumblr.com/page/5 猪瀬直樹といえば『ミカドの肖像』などに代表されるノンフィクション作家で、現在は政治家に転じ東京都知事も務める有名人です。 そんな彼と唐澤先生の間にいかなる繋がりがあるのか。例えば猪瀬直樹の近年の意欲旺盛な政治活動と結び付け、そこから先生が抱く政治的野心を読み取ろうとする方もおられるかもしれませんが、さすがに現時点でそう言い切ってしまうのは難しいでしょう。 では、「なぜ猪瀬直樹なのか?」 この謎を解く鍵は、やはり彼の著作にあります。 それが猪瀬直樹の代表作の一つ、『ミカドの肖像』の続編として書かれた『土地の神話』です。 この作品では、東急電鉄の創始者・五島慶太を中心にした「田園都市」開発の物語、すなわち現在の東京都田園調布の成り立ちが緻密な筆致で描かれています。 さて、勘の良い皆様ならここで「田園調布」というワードにピンときたのではないでしょうか。 田園調布は、先生の外祖父と目される河野一英氏、そしてご尊父洋氏の自宅がある、唐澤先生とは非常に関係が深い土地だからです。 先生は事務所公式ホームページで「世田谷区で幼少を過ごし」と述べておられますが、大田区田園調布は田園都市株式会社により世田谷区側とも一体になって開発が行われましたし、「田園都市」の名を冠する東急田園都市線はその世田谷区を通っています。そして何より、ご祖父の家が田園調布にある。 先生が「田園調布」「田園都市」という土地・言葉に強い愛着を持っておられることは大いにあり得るはずです。 ゆえに、唐澤先生と猪瀬直樹を結び付けるものは、この『土地の神話』と考えてほぼ間違いないものと思います。 先生がこの作品の主人公・五島慶太をFacebookの「尊敬する人」に登録していることからもそれは窺えます。 「なぜ猪瀬直樹なのか?」 そう、自らに縁のある田園調布草創期の歴史を描いた彼の著作『土地の神話』が唐澤先生を惹きつけたのです。 ここから読み取れること――それはおそらく先生の、田園調布に対する深い愛郷心ではないでしょうか。 目を閉じれば、自分の故郷を愛する暖かい心を持った優しいお方、人間・唐澤貴洋の姿が浮かんでくるようではありませんか。 また、唐澤先生がなぜ「好きな本」として猪瀬直樹の著作を直接挙げなかったのかという理由についても述べておけば、それは『土地の神話』、すなわち自己の出自に深く関わる本を挙げることについての気恥ずかしさからだったのではないかと思います。
河野一三でググったら出てきたんだけどこの人は流石に同姓同名の別人かな http://www.city.bungotakada.oita.jp/page/page_00836.html あと一三の生没年がわかっていたら教えてクレメンス
>>94 一英が1920年生まれだから一三は早くて1900年前後の生まれ 1930~40年代に撮られたと推定される一三の写真の貫禄見ると実際は1890年頃じゃないかと思いますを
9 ブランズひばりが丘反対[] 投稿日:2008/03/20 17:46:20  ID:/YB6J3Gq 東急電鉄・五島哲は創価学会会館建設に尽力 東急電鉄取締役の五島哲は創価学会の会館建設に尽力したという。創価学会の池田大作名 誉会長が聖教新聞の「池田名誉会長の世界との語らい」で指摘する(「第28回 実業界 の人々 三井 江戸英雄氏 東急 五島昇氏」聖教新聞2007年12月23日)。 五島哲氏の死去について、以下のように述べている。「先日、東京急行電鉄の取締役であ り、学会の会館建設にもご尽力をいただいた五島哲氏が逝去された。謹んで哀悼の意を表 したい」。五島哲の父親の五島昇についても、池田会長は「「学会が進んできた道は正し い」と周囲に語っておられたとも伺った」と述べている。 五島哲は東急グループ創業者の五島慶太の孫でである。平成2年6月から東急建設社長を 務めたが、10年12月に経営不振の責任を取って退任した後、東急電鉄の取締役などを 務めた。 10 eco ◆Smw69BiSBo [http://eco53seikyoh.hp.infoseek.co.jp/] 投稿日:2008/03/20 17:52:29 まぁ~ね~ 五島慶太氏自身がもともと日蓮系の信者で  幼少の頃 題目を上げていたとか言うからね~ 結びつきがあってもおかしくない  しかも、皮肉な事に東急は池上線を買ったしね(池上線は元々東急のものじゃかった)
1875年 村井啓助誕生 1882年 五島慶太誕生 1886年 中野正剛誕生 1888年 大和田悌二誕生 1890年? 河野一三誕生 1895年 河野房誕生 1897年 田中斉誕生 1906年 平田屋創業 1913~1915年 中野正剛が京城にいた頃、一三も渡鮮している 1916年 菅谷隆介誕生 1918年 唐澤吉信誕生、田園都市株式会社設立 1920年 河野一英誕生 1922年 目黒蒲田電鉄株式会社創立、取締役に五島慶太、河野通が就任(一英2歳、房27歳、五島40歳) 1923年 目黒~沼部間開通、田園調布分譲開始 1924年 田園都市会社監査役に河野通就任 1925年 田園都市会社監査役を河野通辞任 1927年 丸子橋の架橋が計画(一三32歳?) 1928年 池田大作誕生、河野典男誕生 1929年 成田鉄道専務に河野通就任 1933年 東京実業学校の移転に一三が関与(一三38歳?) 1930年代後半 京成が沿線の千住や谷津で土地事業を開始 1937年 京成電鉄監査役に河野通就任 1939年 野熊蔵第3・5代校長に就任 1942年 成田鉄道社長に河野通就任 1945年 京成電鉄重役会にて、社長に河野通が推される(一英25歳、房50歳、五島63歳) 1947年 河野一郎誕生(一英27歳) 1946年 京成電鉄監査役を河野通辞任 1952年 河野厚子誕生(一英32歳) 1953年 東京急行電鉄に河野典男入社 1959年 五島慶太満77歳で病死(典男31歳、一英39歳、房64歳、一三64歳?) 河野通は一三の兄くらいでもおかしくない年齢かな
河野通がコウノなのかカワノなのかすら分からなくて麻
河野通が監査役の後河野魁って人が京成の取締役になってる http://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=11820&query=河野 「河野通」と「河野魁」が同じ馬の馬主をしている http://ahonoora.com/trentham.html
どなたか河野直子と沙季が一郎の家族と推測されている根拠を教えていただけないでしょうか?
http://www.kanekoiwamatsu.com/lawyers/karasawa.html 以前からたびたび上がっているこの人も唐澤家の人物かどうか検証が必要でしょうね 生年月日は開示されてないけど1982に大学卒業だから1956~1960辺りに生まれているはず
>>100 アンノォ……実家の方の登記簿! >>101 その年代なら出身地開示して、東京近郊なら親戚の可能性あり、 長野などなら無関係か、関係あっても遠縁だろうね 1918年生まれの唐澤吉信が既に東京出身だから
一郎と直子に息子はおらんのか? いるとしたら多分名前に「一」が入ってるんやろなあ
一郎の子が沙希じゃなかったか
沙希以外に息子がいてもおかしくないってことじゃない? 実家を離れて暮らしてるって前提で
>>99 河野通と河野魁は親子かな? http://umanity.jp/racedata/database_owner_year.php?code=169880 馬主名 河野 魁(コウノ カイ) 河野魁の読みはコウノなので親子だとすれば河野通もコウノだと思われる 河野魁は2000年に馬主としての記録が途絶えてるのでこの時期に亡くなってそう 1958年に監査役になった小佐野賢治が1917年生まれなので河野魁の生年も大体その辺か 1946年の辞任以降河野通はおそらく鉄道業界から身を引いてるので隠居しつつ道楽で馬主をしていたと そして馬主としてトレンタムが初出走した1969年までは生きていると思われるので1985年生まれなら84歳以上か 1969年~1973年の間に亡くなって息子の河野魁に所有権を移転したと 河野通(1885年? - 1970年?) 河野魁(1915年? - 2000年?) 河野一英(1920年 - )
>>106 読みはカワノとコウノで混乱があるんだよね だからあえて貼らなかった カワノカイ派
>>102 登記簿に書かれた相続情報等からの推測、ということでしょうか 今日は河野房の二人の甥について調べてきました ・村井潤三 朝日新聞 1985年5月22日 朝刊 23頁 東京 村井潤三(むらい・じゅんぞう=更栄証券会長) 二十一日午前九時五分、咽頭腫瘍のため、東京都新宿信濃町の慶應病院で死去、六十六歳。 葬儀・告別式は二十三日正午から港区赤坂一ノ一一ノ三の正福寺で。社葬は未定。喪主は長男護(まもる)氏。 自宅は大田区久が原六ノ六ノ六。 ・村井啓三郎 佐藤朝泰『豪閥―地方豪族のネットワーク』によると、啓三郎の妻章子は、第一生命保険社長の濱口吉兵衛。 濱口吉兵衛(麒蔵) 1892生/銚子醤油会長、第一生命社長/ 10代吉右衛門の弟、濱口吉兵衛(叔父)家に養子入り・妻はその娘 http://episode.kingendaikeizu.net/23.htm 吉兵衛の姉妹の尚子は侯爵嵯峨実勝に嫁ぎ、その娘浩は「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀の弟・溥傑の妃になります。 唐澤貴洋にとって、皇室よりも大清帝国皇帝一族の方が家系図上は近い存在と言えるかもしれません。 房に関してですが、彼女がわざわざ朝鮮に渡ったというのもおかしいので、一三は広島時代に結婚していたと考えるべきなのでしょう。
>>108 是正 章子は、第一生命保険社長の濱口吉兵衛の娘。
村井潤三さんは1917,8年生まれか それにしても皇室だけでなく清朝の帝室ともつながりがあるのはすごいな
>>108 尊師がヒゲタ醤油創業一族の親戚ってマジ? 幻滅しました・・・ヤマサファンになります
やっぱりキッコーマンがナンバーワン!
村井潤三さん浦賀船渠の関係者だった オメガ君のダーキニー初霜(の元ネタ)を造った造船会社なんだよなあ… 1918(大正7)年 三重県に生まれる 1942(昭和17)年 立教大学卒業、浦賀船渠株式会社入社 1951(昭和26)年 同社庶務課長 https://books.google.co.jp/books?id=dr9lrvn_iP8C&pg=RA2-PA53 奥さんのお父さん加藤弥七さんは年齢とステータスからいってこの人かな?とも思ったが証拠がない http://soutairoku.com/07_douzou/06_ka/katou_yashiti.html
中川(村井)雄次郎さんも当たり前のように三重証券入りしていて、身が震える。 https://books.google.co.jp/books?ei=a1FbVcjCEeLEmQXStoDYCg&hl=ja&id=ukOgAAAAMAAJ >三重證券株式會社 X 京,中央本 1|呢町 1 ノ 0 さ場& (お)ニ^か國【現況】 1**1 有憤瞭券桀 31甙百萬圆 1^ >會長川口佐吉,社長村井啓三郞,專饬川口; 8 一郎,常秣淺野荣|8, >取締中川雄次郎,西川 19 三郎,足立燹一、監宠中诒相^佐藤佐一郞血出張所― >定利,足利市、松本(松本市〕!帝圃江戶橋,赏士兜町。【港輩】 I 昭和四年。常初村井商店, >昭和九年同桀川口商店併,肚名改稱, 6 ニー一 1 年#^。
波子さんの藤田家、喜代さんの実家も掘り起こせたら親族に凄い人がいそうやなぁ
村井啓助 更栄証券取締役社長ぐ出ン亀山市ぐ現ン束京都品川区大井金子町ぐ生〉明治 8 年 8 月 0 若くして朝鮮へ渡り果樹園などを経営して自,早くも事業家としてのほう芽を みせた。竜山民団議��, 朝鮮京城 府民団議員などを歴任したが,昭和 5 年帰国.証券界 ... ちなみに村井啓介は1930年まで朝鮮京城府にいたそうです 25歳で朝鮮に渡ってたとしても30年間家族を置いて単身ってのは考えづらいので一緒に暮らしてたと考えたほうが自然 やはり一三が房と出会ったのも京城では?
村井昭夫さんは故人 http://ke.kabupro.jp/tsp/20110520/140120110520032300.pdf >監査役 村井昭夫氏の逝去(平成22年12月2日) >>116 村井家を成り上がらせたのって啓助の力っぽいし、林七主導の婚約ではなさそう 朝鮮で一三と知り合って妹の房を娶らせた可能性はありそう
東京紳士録. 昭和9年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1235036/393 産経日本紳士年鑑, 第 2 巻 https://books.google.co.jp/books?id=YJQcAQAAMAAJ&q="吉田実業" 村井 更栄証券機社村井啓助長生三重県 >明 883 村井証券営和製作所各社長吉田実業取締を歴任一男優合三郎三男潤三四男 日本紳士録(1965) https://books.google.co.jp/books?id=2VFBAQAAIAAJ&q="吉田実業" 村井 >歴村井証券警和製作所各社長・吉田実業 取締役・品川区大井公会堂理事長・品川区大井警察態和会長品川区教育委員長佳東京都品川区大井金子町五八五 O 二四一 O 小夜参照)村井進・村井啓三郎・山崎豊 村井豊さんは養子か婿養子になったのかな?
>>117 すまんパッパと勘違いしてた 啓助は房のパッパちゃうかったな ということはまず啓助が一三と京城で知り合って気に入ったから妹を紹介したって可能性が強いのかな それとも一家共々朝鮮にいたのか、兄と共に働いてたのか しかし1915年に房20歳、一三が房と同年代の若造なら村井啓助や中野正剛と懇意になれるとは思えないから一三は房よりだいぶ年上な気はする あと林七空気すぎんよ~何してたんやこの人
産経日本紳士年鑑, 第 2 巻 https://books.google.co.jp/books?id=YJQcAQAAMAAJ&q="吉田実業" 村井 >... 第山崎豊(山崎商店社長)在東京都世田谷区玉川用賀町一ノ一一域三○八三, >更栄証券機社村井啓助長生三重県明 883 村井証券営和製作所各社長吉田実業取締を歴任 >一男優合三郎三男潤三四男山崎豊(山崎商店社長)在東京都品川区西大井四ノ二ノ七 ... https://books.google.co.jp/books?id=2VFBAQAAIAAJ&q=村井啓助の四男 >山崎金属産業山崎豊県村井啓助の四男生大 B93 ア昭 3 https://books.google.co.jp/books?id=SdoLAQAAIAAJ&q=山崎金属産業 山崎豊 >山崎金属産業株式会社取締役社長山崎豊
第36回 山崎金属産業株式会社 http://www.kandagakkai.org/noren/page.php?no=36 >叔母の夫だった豊が養子となり3代目になりました。実家は証券会社で、本人も起業するなど新しい発想の持ち主でした。 尊師の曾祖母の兄の息子のご尊顔 http://www.kandagakkai.org/noren/images/002237/036-03-01.jpg >>119 林七はほぼ間違いなく江戸時代生れだから時代に付いていけなくてもしゃーない
見落としてたけど啓助の家は旧家(地方の名家)で何不自由ない生活をしてたと書いてあった 31歳朝鮮に渡り、1914年に林七の訃報で家督を相続して内地に戻ったんやね じゃあ一三と知り合ったのも1914年以前か >>121 特に何かしてなくても旧家の生まれだから金はあったんやろなぁ
>>121 つまり一英の従兄弟か…。 ここらへんまで来ると尊師の面影ないな
伊勢年鑑のスニペットを繋げてみた 村井啓助更栄証券取締役社長ぐ出ン亀山市ぐ現ン束京都品川区大井金子町ぐ生〉明治��8 年 8 月 0 若くして朝鮮へ渡り果樹園などを経営して自,早くも事業家としてのほう芽を みせた。 竜山民団議��,朝鮮京城府民団議員などを歴任したが,昭和 5 年帰国.証券界にはいり東京で村井商店を創立させた。 以来 30 年間,競争の激しい証券業界を見事乗り切って,更栄証券を築きあげた。 その間,村井氏のくんとうを受けて成功した人も数多く,現に三重証券社長として活躍している 同氏令息啓三郞氏もその中の 1 人であるが,こうした点からも同氏の人となりの一端がう力、力;われる。 村井商店と川口商店が合併してできたのが三重証券で, 村井氏が経営していたが,戦後 23 年に村井氏は第 1 線を引いて会長になった。 そして同23 年村井氏はいよいよ更栄証券を設立,証券界の第 1 線に華々し〈再登場した。 豊かな経験と鋭いカンで 同証券はみるみる兜町でも手堅い会社として信用を得.一般投資家のよき相談相手として人気を集めていった。 一見禅僧のような人柄に対する汁��の信賴は強くサービス精神に徹した社風は顔客にもきわめて好評である。 同氏は事業の虫だけではなくその徳望と指導性を望まれて大井警察後援会,品川[ ^教育委ほ長などとして活躍, また品川区アマチュア囲甚会会^ ,同区邦楽舞踊副会長を引き受けているといつたほほえましい一面もある。 4 大証券の進出によって中小証券のあり方が問題になつている折りから同氏の活躍が注目される。 家族は民枝夫人との間に 4 男 5 女があり家族でバスを借り切ってレクリエーシヨンに出掛けるなど円満な家庭であり,長男の進氏は住宅金融公^監事,二男の啓三郎氏は三重証券社長,
村井啓助は明治8年生まれだから帰国後30年経った昭和35年には85歳なんだよなあ 出世するには早死にしないことがなりより大事だと思った一瞬でした。
河野一三は晩年創価に帰依したんだよな? 関東の創価墓地公園を調べれば墓開示もありうるかも
>>126 一英は「創価学会も真善美に価値があるのだと言っている」と言ってる http://i.imgur.com/5z21ZWS.jpg でも創価が価値を置くのは「利善美」なんだよね http://www.soka-news.jp/shinjitu/makiguchi1.html >牧口氏は(中略)利善美の理論などを説き、 http://moritasouken.com/sC3375.HTML >従来の哲学は真善美の追求を人生の理想となしてきたが、真理は価値でないのみならず我々の最も身近であり >しかも価値問題の本質となるべき利の価値を忘れていたことが、根本的な誤りである。 >先生は旱くもこの誤謬を発見して、真善美に代るに利善美の体系を打ち樹てられたのであった。 このガバガバ創価理解を見る限り(ユーゴの理解もガバガバだけど)一英は創価とは無縁そう それに一三の頃の創価って今とは大分違うから墓までは無いんじゃないかなあ
>>127 出感 当職の地区の方はわざわざ墓地公園に改葬している人も居たので、河野家の子孫が過剰信心を持っているならその可能性もあるかなと思ったのですが
池田以前と以後の創価って全然違うしな
>>128 「晩年創価に改宗」がどのようなシチュエーションかも分からんからなんとも言えないですわ・・・・・・ 時期的には多分折伏大行進頃だろうけど 喜久●入信すると言え。 認知症の一三●はい。 みたいな状況かも知れないからね 喩えていえば、クラブのママを諦めて、��安岡正篤の妻となった細木数子のように。
昔の創価は本当に学会的な要素があったらしいな
河野一族が広島のどこ出身なのかの手がかりとして「河野」姓の分布を確認してみた http://myozi.web.fc 2.com/spring/chizu/000078a3.gif http://myozi.web.f c2.com/spring/chizu/000078b3.gif 広島県山県郡加計町5.5431 広島県山県郡芸北町4.8309 広島県山県郡筒賀村4.0619 意外にも沿岸部ではなくむしろ山の中に多い苗字だった
>>132 山間部は単に人が少なくて、河野姓がその地域に一世帯でもあれば、 都市部に比べて密度が大きく上がってしまうだけのような気がするナリ
「こうの」か「かわの」かで出自の考察も違ってくるけど 広島出身でこうの読みな時点で伊予河野家とつながっていそうではあるけどね
>>133 2004年のデータで三町村合わせて約9000人のうち450人くらいが河野さんだから明らかに多い地域だと思いますを
2009年度「太極拳初段・2段・3段検定」合格者発表(その2) http://www.jwtf.or.jp/new/0912-05.html >菅谷 英代、杉本 公代、瀬尾 和美、関谷 美知子、芹澤 ヨシ子、 東京都の太極拳をやる(ような歳の)菅谷英代さんって精々二、三人しかいなそう
二年前に既出でしたを 357��:��風吹けば名無し[] 投稿日:2013/03/25(月) 12:19:31.61��ID:opGPYWhh[2/4回] 菅谷英代でググると太極拳の有段者が出てくる
>>135 とはいえ、やはり広島、松山、大分などの都市部において数自体は多いですを しかし、そもそも、本スレで扱う河野家の出自は武士階級であったのでしょうか? 裕福な農民出身、あるいは商人出身のような気がします となれば、明治維新によって苗字を得た可能性が高い。
一英の兄弟の子孫は特定出来ないもんやね とはいえ一英典男以外で会社の重役務めたのは山形日本電気顧問の英二さんとモトキ商事社長の櫻樹さんしかいないしどっちも微妙という 孫の沙希ちゃんもSNSやってなさそうだしなぁ 出龍サイドで掘れないものか
>>138 農民が全員苗字を持っていなかったかといえばそうでもなく郷士や豪農は苗字帯刀を許されていたのは明白 村井家はそんな感じがしますを 河野家は正直よく分からない、これはいけない。 一三さんなぜあなたは朝鮮に渡ったのですか。あなたは長男なのですか。あなたは何を職業にしていたのでしょうか。 一三さんあなたは後年様々な社会活動をされています。なぜ黙ってしまうのですか。 あなたが晩年入信した創価学会についてなぜ語ろうとしないのですか。一三さんあなたには答える社会的責任がある。
ワイの家に○○町史というくっそ分厚い郷土史があるんやけどそれには町レベルのプチ偉人や地域の名家や歴史が詳細に書いてあるナリ 一三もそんなのに載ってないんか?
>>141 一三が●●町出身だってことすら特定できてないから綜当たりになる
>>142 田園調布のほうの郷土史はどうナリ? 出自も併せて書いてあるかもしれません
出身地が広島という以外分からんから難しいやろなあ それにしても一三の権力が何に由来しているのか全く分からんのは不気味 実業家として名を残しているわけでもないようやし
>>140 本当は明治時代以前から、普通の農民も苗字を持っていたのですが、 平民も苗字を名乗っても良いと明治政府からお触れが出たときに、 鈴木や佐藤、あるいはその地域に多い苗字を申請する人が多かったそうですを これはいけない。河野家が元から河野家だったかも分からない。 河野さん、あなたは本当に元から河野さんだったのですか。
このスレを見てたら当職の親戚も上げられててガチで身が震える。 もう掘るのはやめてくれや
一英が生きてるうちに取材したほうがてっとり早そう >>146 おはパカデブ 村井家か何か?
>>143 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1684358 ここの第六章社會事業第二節方面事業に名前くらいは載っててもおかしくない http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I5821779-00?ar=4e1f 田園調布の郷土誌もあるにはあるけど田園調布サティアンが含まれているかというとどうだろう
趣旨の異なるスレに書き込んでしまい申し訳ございません。 http://i.imgur.com/PUxC9kk.jpg にあるサッガの御尊父嵯峨山實治郎氏とは兵庫県立有馬高等学校長・尼崎高等学校長などを勤められた方ではないでしょうか。 http://seiryou.net/old/school/principals/image_arima/07.jpg
>>146 尊書編纂作業なのでセーフ
よみづれーなと思ったけどこう言う文書には句読点を使ってはいけない決まりがあるらしいナリね
>>148 何かしらの文献が見つかればいいけど大したものは望み薄なんですかね… 一三は朝鮮統治時代の初期から渡ってるがそこで何をしたのか気になります あと今更ですが洋さんは現役かつ露出の多いわりに発言や文章は一つも無いなと思った一瞬でした 教徒によって脚色されてばかりで彼がどのような人格をしてるのかは一切分かってないんですよね 画像だけが増えていく
洋さんが粉飾決算を指摘して契約解除されたみたいなケースって、日本で他にも例があるんですかね? オリンパス事件の際ファイナンシャルタイムズあたりに 日本の公認会計士制度は歪んでいるのでクライアントとの癒着が生じやすいと散々に書かれていたので、 相当な正義漢のイメージを抱いているんですが
河野一三 大森区史 http://i.img ur.com/PpVrPeG.jpg http://i.img ur.com/U6jNOVh.jpg 河野一英 日本紳士録60版 http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org326510.jpg 同59版 http://i.im gur.com/PcAdhc3.jpg 同58版には名前がない(か、こ、両方確認) 唐澤吉信 東洋経済会社人事録1963年版 http://im gur.com/XOXeoFs.jpg http://im gur.com/x32yhLJ.jpg 同1966年版 http://imgu r.com/HPQFIm0.jpg http://imgu r.com/I8SHP8P.jpg 鉄鋼年鑑昭和42年版 http://i.imgu r.com/nDZh7G7.jpg 同41年版(名前がない) http://i.i mgur.com/aeeBEmH.jpg 同40年版 http://i.i mgur.com/mCrDCvO.jpg 同36年版(名前がない) http://i.i mgur.com/Do0duP7.jpg 同32年版 http://i.imgur.co m/HPvrVHo.jpg
村井啓助 日本紳士録42版 http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org326539.jpg 事業の日本1934 http://i. imgur.com/LAYvzae.jpg 同1936 http://i. imgur.com/sUXOWrJ.jpg 同1937? http://i. imgur.com/cqgwnEP.jpg 伊勢年鑑昭和45年版 http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org326530.jpg 同43年版 http://www.dotu p.org/uploda/www.dotup.org326528.jpg 同41年版 http://www.dotu p.org/uploda/www.dotup.org326533.jpg 同38年版 http://www.dot up.org/uploda/www.dotup.org326532.jpg 日本紳士録52版より 村井啓助とその子どもたち http://i.imgur.co m/IOondwQ.jpg 山崎豊 http://i.imgur.co m/4ew3yAe.jpg 日本紳士録55版より 河野通(実家が大分で東京育ち?河野一三とは無関係?) http://i.imgur.co m/u2NjaIb.jpg 河野魁 http://i.imgur.co m/62ueYnI.jpg 当職の環境では一部画像をimgurにあげられなかったので、転載していただくことを切に望む。
ちょっと有能すぎんよ~~~~~
http://i.imgur.com/cqgwnEP.jpg >今日では資産百万円を超える http://chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q149008099 >1937年の100円は現在の 664.9/1.258*100= 528537 円 現在の価値で60億くらい持ってたのか… そんな男の妹を貰った一三もただ者では無さそう
>>154 imgurの無能リサイズ機能が原因みたいですを 日本紳士録昭和60年版 http://i.img ur.com/R1pPHwS.jpg 日本紳士録昭和42年版 http://i.img ur.com/iOqRNgU.jpg 伊勢年鑑昭和38年版 http://i.img ur.com/gtNotvP.jpg 昭和41年版 http://i.img ur.com/pgWN7q2.jpg 昭和43年版 http://i.img ur.com/fZwd1OY.jpg 昭和45年版 http://i.img ur.com/ZuXU2Na.jpg 啓助 http://i.img ur.com/P2oPBwH.jpg
画像のアップロードはこれぐらいに し、話を尊師と天皇家との関係の話にします。 現状出回っている系図では尊師と今上天皇は24親等となります。 だけれどもそれはまだ調査の途中で最短ではないのではないかと思った。 108の言う嵯峨浩との関係を使えば、 今上天皇と嵯峨浩が9親等、尊師と嵯峨浩が10親等なので尊師と今上天皇は19親等ということになります。 これはいい。 同様に溥儀とは12親等となり、これは男装の麗人川島芳子(19親等)や立命館アジア太平洋大学教授の愛新覚羅烏拉熙春さん(14親等?)よりよっぽど近いことになります。
つまり尊師を愛新覚羅パカとして満州皇帝に即位させることができるってこと?
関東軍は恒心教徒の集まりだった…?
村井潤三さん、株式会社淀川製鋼所の株を1株(500円ほど)持ったまま死んでしまったもよう なんでそんな半端な株持ってたんですかね… http://www.yodoko.co.jp/koukoku/_shozaifumei20141205.pdf
あげ
典男ってノムさんみたいな顔しているナリね
ほぼネタですが 尊師の親戚の書家 愛新覚羅毓�� http://www.kato-trading.co.jp/toriatsukai/shoga.html http://www.kato-trading.co.jp/img/shoga/1a.jpg http://www.kato-trading.co.jp/img/shoga/3a.jpg
尊師と溥儀の関係 http://i.imgur.com/7iVxtwq.png
近すぎて草生える
もしかして1Aはとっくに死んでるけど、年金を不正受給するために生きていると偽っているんじゃ と言うことは田園調布サティアンの押入れには変わり果てた姿の1Aが…
でも一英は下手したら出龍より生きそうな気がする 生命力の塊って感じ
わだつみのこえ127号が出たのが2007年11月だからそこまでは少なくとも生きてるはず
村井家が有能すぎる
尊師と天皇家の関係(新ルート) http://i.imgur.com/g7X6xZT.png こちらの方が早いですが政治家がバンバン出てくる旧ルートの方が面白いのは明白 http://i.imgur.com/l7vtvIB.png
こう言うこと言ったらおしまいなんだろうけど これは結局他人じゃないんですかね……?
>1983年の秋、センチュリー監査法人 >同監査法人の名誉顧問である大東文化大学教授の河野一英 http://pacioli.world.coocan.jp/AAAJ/AAA_No.23_2008_10.pdf
>>173 これを見てガチで親戚だと思う人がいたら頭唐澤ですわ ただ普通の家はこんなことしても天皇家や愛新覚羅家に繋がらない、 というかそもそもこんなことができないので尊師の家が名家なのは明白 あと糖質ネキが言うように唐澤洋=平静天皇(の世代)、唐澤厚子=皇后美智子様(の世代)、唐澤貴洋=皇太子(の世代)なのが面白かった
普通は母方の曽祖父の家なんて疎遠になって交流しないからな 多分尊師よりここの芋のほうが親戚について詳しいわ
一英は2014年4月の時点で高校の同窓会の顧問やっとるんやな http://isshou.ciao.jp/pdf/hachiyama_50.pdf
http://i.imgur.com/7xIVcEN.png 濱口家を使ってショートカット 今上天皇まで15親等
こんなに明確に遡れる時点でとんでもない名家だよね
自分語りで恐縮ですが当職の母方の実家は当職から見て曽祖父の祖父までの戸籍名簿なら残っております。 尊師も役所に行けばそれなりに残っているのではないでしょうか まあさすがに登記簿と違い関係者でなければ閲覧不可だとは思いますが
当職の家も寺の過去帳を読むと16代前まで遡れますを ただ尊師は基督教徒だそうですし教会にそんなものがあるのかどうか…
>>181 尊師はキリスト教徒ではないと断言しています とり取り
十三氏は朝鮮で活動されてたんだっけ 住所が転々としていたなら尊師が檀家登録されている寺は無いやろなぁ
>>183 間違えられやすいですが十三(じゅうぞう?)ではなく一三(かずそう)ですを
宗教かけもちがデフォの日本でキリスタンがどうとかはあまり関係ないでしょ 檀家はどこの家でもあるし唐澤家も当然あると思うで 檀家がわかればかなりのことがわかるな、厚史のことも含めて
>>184 当職 無能 仕方なかった 風俗 仕方なかった
有能ニキが掘ってくれてピースも埋まりつつあるけどいよいよネットや図書館で手に入る情報は尽きてきたかな 小ネタならまだあるかもしれんが そろそろ謄本開示、卒アル開示、墓開示、菩提寺の過去帳開示くらいの力業が必要になってくるか
>>185 当職が心配なのは一三氏が晩年創価に帰依していた事です。 少し上でも出ていますが折伏大行進の頃の創価は攻撃色が非常に強く、無理矢理折伏して神棚や古い仏陀を焼くなどしていたと聞きます。 もし親族が創価に強く帰依し、一三氏も道連れにされたなら寺社との縁も切れてしまったのではないかと心配です。
>>188 当スレ127でも出ていますが一英は創価ではなさそうですので大丈夫でしょう
というかマスオさん状態とはいえ養子縁組してるわけではないし厚史も洋も唐澤家の墓に入ると思うナリ
まず初めに書いて置きますが、僕は画像を編集するのは得意ではないので読みにくかったらもうしわけありません。 要点は ①河野一三、長男ではなかった ②河野茂典、河野典男の息子ではなかった ③河野典男、孫を養子にしていた ④河野典男、浄土真宗門徒だった ⑤河野喜代の没年、旧姓(柳下)判明 ⑥河野六朗、モトキ商事役員だった ⑦村井啓助、45歳まで村井甚七だった の七点となります。 ①について 人事興信録第12版に「河野唯一弟一三」との記述あり 唯一と名前を付ける親というのも凄いなぁ。 唯一の弟が一三ということは親も一の字を使っているのは明白 ②について 茂典自殺以前の人事興信録にも茂典の記述が無く、わざわざ孫を養子に取っている ③について 人事興信録37版に「長女典子(略)は河野勝美に嫁す」、同41版に「長男佑典(略)(孫を養子縁組)」との記述あり はっきりいって河野一族の通字への思い入れは異常だ。 (??→一三→一英→一郎、典男→典子→佑典) わざわざ養子縁組してるということは河野勝美は偶然同姓なだけで婿養子では無さそう ④について 人事興信録各版に「[宗]真宗」との記述あり 典男だけ真宗に改宗するのは不自然なので河野一族は元々門徒なのではなかろうか ⑤について 人事興信録43版に「亡妻 喜代(旧姓柳下)(略)(平151014逝去)」との記述あり ⑥について 人事興信録42版に「弟六朗(昭7生、モトキ商事役員)」との記述あり ⑦について 人事興信録13版に「大正(略)十年前名甚七を改む」との記述あり はっきりいって異常だ。 林七を否定したかったのですか。啓助さんお答え下さい。 人事興信録12版 i.imgur.com/8RpxYxi.jpg 13版 i.imgur.com/OvZs5Ly.jpg 不明 i.imgur.com/rkZ25Xe.jpg 37版 i.imgur.com/HmSoAi1.jpg 41版 i.imgur.com/pspRIrj.jpg i.imgur.com/vCLakz6.jpg 42版 i.imgur.com/JAjGOtS.jpg 43版 i.imgur.com/o1DYAM9.jpg 44版 i.imgur.com/9ASKz9P.jpg 45版 i.imgur.com/xY5hOwv.jpg i.imgur.com/M6vDxxj.jpg 日本紳士録75、77、78、80版 i.imgur.com/c6LyTWv.jpg i.imgur.com/5r6A1i3.jpg i.imgur.com/0wypGNB.jpg i.imgur.com/fL2ccE6.jpg
有能 唯一(ただかず)だろうな読み方は
補足として 河野唯一について 河野唯一なる人物が朝鮮や日本赤十字社台湾支部の資料に登場する http://thesis.lib.ncu.edu.tw/ETD-db/ETD-search/getfile%3FURN%3D91125007%26filename%3D91125007.pdf また、明治三十年代の広島県は海外に多くの移民を輩出した移民県としても知られる 河野一族は広島の豪農でも何でもなく、一旗あげるため一家で朝鮮へ渡り、 そこでそれなりに成功して村井啓助と出会ったのではないかと思った一瞬でした。
広島の辺りって昔は移民排出しまくってるよな 北海道の北広島市とか関東のおじいちゃんの言葉のイメージもそうだし
この分だと伊予河野家との関わりは薄そうだな あってもはるか昔に分かれた遠戚の分家筋だろうな
ついでに言うと河野徳三郎は商学部?出てるけど愛知だかの人で全然関係なかった あのコピペは糖質ネキみたいなのがたまたま人事興信録覗いてしまったのかもしれない
河野典男長女・典子が結婚した河野正美だが、同姓同名の国会議員がいる 経歴は、 東京都生まれ、福岡県出身。1980年西南学院高等学校、1990年愛知医科大学医学部医学科卒業。 1994年に九州大学大学院医学研究科内科系専攻に入学し、1998年に単位取得退学。2001年医学博士号授与(九州大学)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%AD%A3%E7%BE%8E のりおの養子になった河野佑典(平成元年生)だが、2014年に愛媛大学「医学部」6回生だった人物と年齢に違和感はない。 http://eumedjudo.blog.fc2.com/blog-entry-1.html 同じ祐典かは不明だが、「福岡県」の福島中学と八女工業卒業の河野佑典くんもいる。 http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:zK1cYo283nIJ:cdn.whotwi.com/behknqux0709/friendships/followers/2+&cd=9&hl=ja&ct=clnk&gl=jp なお、愛媛大学の佑典の苗字の読みは「こうの」である https://www.facebook.com/yusuke.kono.731/about 河野正衆議院議員は「かわの」であるが、佑典が河野典男の養子であることを考慮にいれれば矛盾はない。
>>197 正美じゃなくて勝美なんだよなあ
>>197 勝美なんだよなあ それに典男の養子が福岡出身のはずがない そこまで挙げちゃうのは若干糖質ブログネキの域に入ってる 愛媛大の河野佑典も東京芸大以外私大しか出てこない一族としては不自然 愛媛だし無関係の地元民じゃないですかね…
これやりすぎると自分の親戚にまでつながってアサケーに自分の名前が開示されることになりそうだな ほんと怖い