391 グナマーナ正大師 2015/04/03(金) 08:31:53 ID:ENMWDKY.
弁護士になりたい理由を聞くと、多くの人がもっともらしい理由を口にします。
「困っている人を助けるのが好きで、色んな人と出会いたいからです」
「子供のときに弟を失った無力感を忘れたい、人が人に優しい社会をつくりたい」
しかし、私はこうした言葉をどうも真に受けることができません。「君、本当にそうなの?」と問いかけたくなることがほとんどです。
それは彼らが、自分のやりたいことを本当に見極められているように見えないからです。
率直に言うと、弁護士志望者の多くが「ちやほやされたい」という欲求を隠し持っています。それ自体は悪いものではありません。
しかし、自分がどれだけそれを望んでいるのか、その欲求の優先順位がどれだけ高いのかは自覚しておかなければなりません。
(略)
「人の上に立ちたいからその手段として弁護士を選んだ」ならそれでいいのです。問題はそれを自分で認識できないこと、
手段と目的を取り違えることです。この順番を間違えながらどれだけじたばたしても、あなたが満たされることは絶対にありません。
(略)
酷い言い方かもしれませんが、大体の奴は〝駄目"なのです。
にもかかわらず、弁護士志望者たちがまるで海外ドラマのスーパー弁護士や特撮ヒーローのような自己陶酔に陥ってしまうのは、それを体現している弁護士が実際に存在するからなのでしょう。
たとえば、僕の知り合いに、海外の法曹界で幅広く活動している人が二人います。
彼らは二人とも 、二十代になるまで弁護士になろうなんて考えていなかったそうです。
それがあるとき突然弁護士を志し、あっという間に司法試験に合格したのみならず、あれよあれよという間に一大ビジネスを築くレベルの人気敏腕弁護士になってしまったのだから大したものです。
言うまでもないことですが、彼女たちにあって、普通の弁護士志望者に欠けているものは「才能」です。
そこそこ才能のある人間が努力を重ねてやっと到達する領域に、いとも簡単に届いてしまう傑物がごく稀まれにいます。先の二人はそういう人種です。彼女たちの弁護はすごい。
実際に見ている私も心からそう思います。法律の勉強をしたことがなかったのに何でこの領域にいるの? とぎょっとしてしまうような弁護士なのです。
そして、才能のない人間がどれだけ努力を重ねたところで、その領域には決して届きません。努力だけでもある程度まではいきますが、その先の一線を越えるには「才能」というパスポートがどうしても要るのです。
才能の重要さについて語るのはとても難しいことです。なぜなら、法定弁論ひとつとっても「センスのある奴はほっておいてもできるし、できない奴は何を教えてもできない」の一行で済んでしまう話だからです。
ロースクールに通おうがセミナーに通おうが、できない人にはできない。センスのいい人は放っておいてもどんどんうまくなる。
理想の上では、学校などはこの「できない人」を「できる人」に育て上げる場所ということになっているのでしょうが、私の見てきた限りなかなかそうもいかないようです。