15 グナマーナ正大師 (sage) 2015/05/17(日) 00:37:42 ID:tqbY2.V6
http://fruits.jp/~kikyorai-yard/wadatsuminokoe/magazine.html
■連載 語り継ぐ戦争体験者の証言⑥
BC級戦犯60年目の証言と日本の戦争…………………河野 一英
春の叙勲、喜びの受章者 勲四等 /東京
1994/04/29
河野一英 73(教育研究)大田
1943/10月に海軍予備学生となり、館山海軍砲術学校に入隊
横須賀の海軍砲術学校の分校として設立されたこの学校は、対米英戦の戦術戦略上において、最高機密の特命を持った特別陸戦隊養成が課せられていたこともあり、「鬼の館砲」と呼ばれた。
実地訓練は館山航空隊基地を敵の飛行場と想定し、狭い航空基地内に落下傘で正確に降下することが要求された。この猛特訓では降下に失敗し死亡する事故もあった、「死の特訓」である。
また術科は砲術・陸戦・航海・対空・通信等の諸科の他に化学兵器科もあり、当時日本で細菌戦の訓練をしていた唯一の学校と言われる。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%A0%B2%E8%A1%93%E5%AD%A6%E6%A0%A1
1944/03月に館砲学内で優秀なトップグループ(陸戦)の20名に選ばれ、特攻特殊部隊「山岡部隊」要員に予備学生ながら特別選抜される
海軍陸戦隊の中でも特に体力、知力に優れ、風貌や体格が欧米人風という条件を満たした350名を選び編成されていた。
訓練は、もっぱら夜間で、アメリカ本土の地理や交通に関する知識をはじめ、英語や風習に関する教育が行われ、隊員の服装や食事もアメリカ風だったといわれている。
隊員には、どんな苦難や欠乏にも絶える特殊な訓練が課せられ、短い自動小銃をはじめ40kgの荷物を背負って、一日60kmを駆け足で移動する強行軍や、富浦町大房岬の海岸にある100m近い絶壁を素手で登る訓練を行ったといわれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C%E7%AC%AC101%E7%89%B9%E5%88%A5%E9%99%B8%E6%88%A6%E9%9A%8A
続・トンツー談義(95) 海軍時代の記憶 -山岡部隊のことー
当時の陸海軍々人で長髪の者は居ませんでした、或る時、物資補給のため横須賀の補給部へ行った時、夜、映画を見に行きました、映画館は満員で私は端の方に立って見ていましたが長髪のため軍帽を被ったままでした。
そのうち後ろの方から「其処の兵隊帽子を取れ」と云う声がかかり帽子を取り最後まで映画を見て帰ろうとしたら、腕を強く握られ「この髪は何だ」と長髪の髪を引っ張られたので、「私は館山砲術学校に居る山岡部隊の者です、司令の命令で髪を伸ばしています、海軍の軍令部に問い合わせて下さい」と言い、そのまま約15分位したら「帰って宜しい」と無罪放免された事を今でもハッキリ覚えています。
館山の軍事施設の由来を記した「館山基地物語」にも幻部隊とか忍者部隊として一時記載されていた様です。私達の宿舎はこの砲術学校の一番奥にあり奥兵舎と呼ばれていました。
此所での訓練は以上のような目的のため、日常の簡単な英会話、英文の判読、及び野外訓練としては夜間訓練が主となり、日没時から夜明けまで南房総の山野を歩き回り、体力増強、方向維持訓練及び忍者の様な夜間訓練だけでした。
これは予め2~30キロ先に目標物を置き、日没と同時にその目標物に向け地図と磁石を頼りに5~6人が一団となり行動を始めます、そして目標物の傍に「爆薬」と書いた紙片を置いて夜明け迄には宿舎に帰らなければなりません。
当時の思い出話として、現在も海自の「隊友会」の集いの席上で必ず話題になるのが、各自、約10キロの砂袋を背負い、館山から靖国神社まで2泊3日の往復徒歩行軍でした。全行程約200キロ弱で、1日5~60キロを目標に歩いた事になります。誰一人として落伍者は無く無事この訓練の成果が出た事は、今も語り草になっています。
http://megurokai-h.jugem.jp/?eid=333
都立第一商業同窓会顧問
http://isshou.ciao.jp/pdf/hachiyama_50.pdf
http://isshou.ciao.jp/pdf/H26yakuin.pdf
チャンギー慰霊祭
集合写真
http://www.shoueiin.jp/annai/pop/l_changi_012.jpg
http://www.shoueiin.jp/annai/ceremony_apr_02.html