17 グナマーナ正大師 (sage) 2015/05/17(日) 00:39:23 ID:tqbY2.V6
建設人より以下全文
世紀東急工業創立10年目の今年6月に東急建設副社長からこちらの社長に就任した。
東急の生え抜きであり、世紀建設と東急道路合併の立て役者だから、誰が見ても順当な人事。
身長180センチ、体重100キロという巨漢で、事実なかなかの豪傑だが、相手の立場に立って考える繊細さも備えている。
技術者だった歴代の世紀東急工業社長と幾分肌合いが違うが、人柄がよく「誠実と努力を旨とする」など、大筋では同じ系譜に連なる人といえる。
持ち前の馬力で会社をどう発展させるか、注目されるところである。
昭和3年11月19日、東京府下荏原郡東調布町字下沼部の生まれ。「ボツボツ住宅が建ち始めていたが、辺りはまだ一面の畑だった」というが、何とそれが今の田園調布。
兄3人、姉1人、弟2人の7人兄弟で、体が大きく、おっとりしていたので、「七福神の布袋さん」と呼ばれていたとか。
父が、当時の横浜市長と多摩川の両岸10里に桜を植えさせたり、丸子橋の架橋を計画し、東急電鉄に土地を寄付させて東京側から着工するなどの地元活動をした土地の有力者だったので、小学校を終えると、その父の弟分が校長をしていた東京実業学校に進む。
ところが戦争が激しくなり、修業年限も短縮され、「本土決戦」の声も聞かれるようになったので「同じ殺されるなら戦って死のう」と決意し、海軍特別幹部練習生の試験を受けて、20年5月武山海兵団に、そして砲術学校に入隊した。
ここの訓練は大変なものだった。重装備の強行軍では、意識不明になって倒れるものがバタバタ出た。
米軍機の爆撃で友人の何人かが亡くなられたこともあった。藤沢市辻堂の演習場で砲術訓練を受けていたら本当に敵機があらわれ、そのまま実戦となった。
こうした訓練の中で「何クソッ」という度胸がつき、おっとりした人柄が一変した。
それ以来、どのような困難に遭遇しても「あの時耐えられたんだから」と思うと少しも怖いと感じなくなったという。
「敵の機動部隊が相模湾に上陸してくる」という情報もあり、手榴弾を渡されて水際決戦の訓練をしている最中に終戦の詔勅を聞いた。
突然のことで何がなんだか分からず、戦友たちと抱き合って泣いた。同時に「ああ、これで助かったんだな」という感慨も湧いた。
復員したが上級学校へ行く気にもならず、1年ぐらい虚脱状態でいるところへ長兄が復員してきて「これからは学校へ行かなければダメだ」と叱咤激励されたため、翌年明治大学商学部の専門部を受けて入学した。
本科を卒業するに当たって、父が当時の東急会長五島慶太氏(故人)と親しかったので東急電鉄を受けて合格、28年7月入社した。
2年近く、改札、出札、車掌、運転士などを勤めたあと、20年5月から3年間私鉄経営者協会に派遣され、私鉄総連との団交や中労委交渉の事務局を勤めた。
20歳代の若さで中央の労委交渉の表裏を見、経営や労務の勉強をし、中央官庁や組合幹部とも知り合い、とくに、後に私鉄各社の幹部になる各社派遣社員と昵懇になったことは、河野さんにとって得難い経験がった。
33年には本社勤労部に戻ったが、入社以来この時期を通じて勤労部長だったのが、現会長の八木勇平氏である。