18 グナマーナ正大師 (sage) 2015/05/17(日) 00:40:00 ID:tqbY2.V6
36年2月には創業1年ばかりの東急建設に出向し総務課係長、しばらくして課長、総務部次長と創世記の同社の経営中枢に関与。
44年には横浜市店長、続いて本社総務部長、人事部長、横浜市店長、常務、専務、東京支社長、副社長、東急建設の発展とともに栄進した。
その間、社は47年代をはじめにはグアムに進出、建設業界では他社に先駆けて現地法人も作った。
だが一時、第1次石油ショックなどの影響もあって、うまくいかなくなり、撤退話が持ち上がったことがあった。
当時の八木社長から「撤退してもよいが、東急が逃げ帰ったと言われないようにしてくれ」と支持された。
これを聞いたこの人は「じゃあ、私がやります」と切り込み隊長を買って出、自らタイ、マレーシア、シンガポール、ハワイに乗り込んで現地の提携先を探し、海外事業発展の橋頭堡を築き、続いてシアトル、ロサンゼルス、バンクーバー、パラオ、バヌアツ等へとエリアを広げていった。
また、東京支社長時代には、折からの首都圏集中の波に乗って多角的な事業を展開、東京の用賀プロジェクトや羽田空港のJASの格納庫(現在工事中)なども手がけたが、特筆すべきものの一つが、池上線戸越銀座~旗の台駅間で行った、現在使用中の線路の真上に仮受桁を組み立て、一晩のうちに線路を切り替えるという「直上高架切替工法」の開発、施行だった。
このようにして、就任時1千億円だった事業規模を約3倍に広げた。
53年には東急建設の常務を勤めながら、東急道路の取締役を兼ねたが、そのころ旧満州国(現中国東北地方)の優秀な技術官が集まっている世紀建設と東急道路の担当として、当時の世紀建設副社長の工藤忠夫さん(注=元世紀東急工業社長・故人)と交渉に当たり、57年合併に持ち込んだ。
世紀東急工業の誕生である。そうした経緯もあって今年6月社長に就任した。
「あれ以来、私は工藤さんを技術にも経営にもめっぽう強い素晴らしい兄貴分として私淑してきました。幸い、我が社はこれまで4代の社長の技術と人柄で信用を築いてきました。
この伝統を壊さないよう、一致協力して社業を発展させていきたい」と社長としての抱負を語る。
また、者の運営については「企業は人なりと言われうが、幸い我が社は人に恵まれているので、皆で力を合わせて、皆さんに”この会社に勤めてよかったなぁ”と思ってもらえるような会社にしていきたい」と考えている。
昭和46年、乗用車を運転して高速道呂の川崎インターで照明灯に衝突した。すごい衝撃だった。
額に手をやると骨が出ている。隣に乗せていた部下のことが気になったが、救急病院で治療を受けたあと、院長が看護婦に「村山さんは通院でいい。河野さんは入院」と支持しているのを聞いて「2人とも助かったんだな」と思ったという。
この時の後遺症で、今も左目は見えず、左手は曲がったまま。
だが、この時の5~6回の手術の中で①自分は前方不注視でこんな目にあったが、人間はいついかなる場合でも、最も肝心なことだけは守らなければならないんだ、②こんな苦しみは経験しないと分からない。
人間は他人の立場に立って考えることが大事なんだ―――という2つのことを学んだという。ケガしても、タダでは復活しない人である。
今でも月4回はゴルフをやる他、絵画や日本庭園を見て回るのが好き。
変わったところでは、ハワイ、ニュージーランド、ポナペなど太平洋の島々の素掘りの人形を集めている。それに謡曲も歌うなど趣味は極めて多彩。
「前東急建設社長の馬渕虎雄氏が亡くなるとき”人に心を尽くしたよい人生であった”と言われたが、私は”人に心を尽くされ、そして尽くしたよい人生であった”と言えるようになりたい」というあたり、人の心を大切にする社長さんである。
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実業界
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2014年3月19日 60周年式典・懇親会が盛大に
連合駿台会として第1代、第3代会長である河野典男様と、第2代会長である長堀守弘様に、記念品が贈られました。
http://rengosundaikai.jp/info/926/