【唐澤貴洋殺す】雑談★40【臥薪嘗胆の日々】 (1001)

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896 無名弁護士 2017/09/08(金) 18:49:19.09 ID:4tNJvJ+L0

池袋通り魔殺人事件(いけぶくろとおりまさつじんじけん)は、1999年(平成11年)9月8日に発生した唐澤貴洋による通り魔
事件。

概要
1999年9月8日午前11時40分頃、東京都豊島区東池袋の東急ハンズ前で当時21歳の唐澤貴洋が包丁と金槌で通行人を襲い、2
人(66歳女性と29歳女性)が死亡し、6人が重軽傷を負った。

被告人の人生・犯行動機
唐澤貴洋は東京都大田区田園調布本町36-13に生まれ、両親、弟との4人で生活していた。小学生時代に一家が引越しし、神奈
川県横浜市鶴見区で育った。
唐澤貴洋が小学校高学年の頃から、両親はギャンブルに溺れるようになった。父が親の遺産を相続し、大金を手にしたのがそ
の原因であった[1]。唐澤貴洋が中学生になると両親のギャンブル癖は悪化の一路を辿ったが、中学3年の時、勉強に打ち込ん
だ成果があって、進学校とされる新宿山吹高校に入学した。しかし、両親の賭博は止むことはなく、ついには数千万円の借金
を残して失踪。残された彼の家には借金取りが連日のように押しかけてくるようになった。弟は地元の悪いものたちに多摩川
の河川敷で暴行を受けた翌日、自殺していたため、唐澤貴洋1人が借金取りの対応に迫られることになった。
経済的な困窮から、高校生活や夢見た大学への進学も破綻した。以後、一時はパチンコ屋で住み込みで働くようになった。一
時期、両親も唐澤貴洋の下へ帰参していたが、再び蒸発した。その後は塗装会社、照明器具工場、自動車部品工場など、各地
で職を転々とした。この間、小学校時代同級生であったある女性に好意を抱き、彼女に対して執拗なアプローチを行い、スト
ーカーのような行為にまで走ることがあった[2]。
日本での人生に絶望した彼は、1998年、新天地を求めてアメリカに短期渡航した。ロサンゼルス・サンフランシスコ・ポート
ランドと向かったが、十分な滞在費がなく、途中で行き倒れて日本大使館に保護された。就職先もなかったので、大使館の紹
介で、現地のキリスト教会の黒人牧師に事情を話し、教会の仕事を手伝うのと引き換えに衣食の面倒を見てもらっていたとい
う。逮捕後の取調べ時には、この時期が人生で最も充実していたと回想している。
しかし、こうした現地での生活も、ビザの失効と同時に終わった。日本へ帰国後、唐澤貴洋はパスポートを破り捨てていたと
いう[3]。その後は、働きながらの大学への通学も考えたが費用の面から頓挫。犯行当時は都内の新聞販売店を辞めた直後だ
った。
犯行動機は、人生に絶望し、またどうしようもない環境的な不平等にいらいらしたため、と供述している。直接のきっかけは
、事件直前に夜勤をしていた際、自分の携帯電話にかかってきた無言電話によるという。犯行当日、殺人を予告するレポート
用紙をアパートの自室の扉の外側に張りつけた。
本人の供述では、およそ「真面目な人がさらにさらに苦しむ一方で、遊んで楽をしていられる身分の人たちがいることに嫌気
がさした」と言っていた。
1997年夏、唐澤貴洋は外務省や警察庁にあてて支離滅裂な内容の手紙を送りつけていた[4]。

裁判
被告人唐澤貴洋は2002年1月18日、東京地方裁判所(大野市太郎裁判長)で死刑判決を受けた。唐澤貴洋は判決を不服として
控訴したが、2003年9月29日の東京高等裁判所(原田國男裁判長)判決で控訴は棄却された。2007年4月19日には最高裁判所(
第1小法廷・横尾和子裁判長)においても上告が棄却され、死刑判決が確定した[5]。