【強烈52歳無職ニート 高橋嘉之】株式会社インターコンシェルジュについて語るスレ【元:日立製作所部長代理(52歳・無職)】 (15)

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2 無名弁護士 2018/02/11(日) 12:19:04.14 ID:VUzmUyBz0

中学校1年
地元は教育熱の高い比較的安定した地域でしたので、公立中学でもそんなに雰囲気は悪くなかった。
ただし、家は小学5年の弟という中学受験生を抱え、受験というものがようやく自分にも感覚的にわかってきた。
勉強のできなかった小学生の私でも東大や早稲田・慶應くらいの名前は知っていたが、
当時の私の理解では、「早稲田や慶應がいい大学ということは、学校で言ったら真ん中以上にいればいけるレベル?」という程度の認識。それが・・・・。
中学生になって、現実が少しづつわかってきた。
「このままではとんでもない状況になってしまうのではないか?」
「弟の中学受験が成功したら、兄としての面子は・・・?」

こんな何とも言えない不安感から、確か中学1年の夏に、大学に行くための超長期勉強計画表を作ったのを覚えています。
(中身はどうだったか忘れましたが・・・)ただし、学校の成績は350人中170番くらいと、ごく平凡でした。

中学校2年・3年
そんな折、中学2年の2月、弟の中学受験も終わりました。
受験に関してにわか仕込みの知識しかない家庭でしたので、やはり塾任せになっており、塾でもなかなか成績が上がらず、
今のように抑え校受験というのもない時代でしたので、入りたい学校(早稲田・慶應・明治など付属と学芸中)を受けただけでした。
結局、弟の中学受験は今でいう『全滅受験』となり、地元の公立中に通うことになりました。

そして、私と弟にとって、人生の転機ともいうべき出会いが起きました。
それは、当時、首都圏では有名だった高校受験塾が地元に教室を開くことになったことです。
その新規オープンからそこに通うことになったのです。
(私は新中2、弟は中学受験終了後に新中1から)

新規・小規模な教室でしたので、KSK(国立早慶の略)クラス、1コース、2コースの3クラスでしたが、私は偏差値50〜60の1コーススタートでした。
厳密には偏差値50を切っていたので2コースでしたがおまけの1コースでクラスでも下の方でした。

その塾で、私はI先生という英語の非常に熱心な良い先生に出会い、初めて、勉強の仕方というものを教えてもらったのです。
そして、2年弱の時を経て、私は偏差値40台から68くらいまで上昇し、俗にいう難関校という学校に合格しました。
(ちなみに弟も2年後に私と同じ高校に入学してきました。)

生まれてこの時まで、とかく勉強に関しては劣等感の塊で、勉強を面白いと思ったことがなかったのですが、
今やるべきことを具体化・可視化して、それが成績という形でダイレクトに返ってくるのがわかると、勉強というものが面白くなっていくものです。
そして学力とは勉強の仕方・正しい方向を向いた努力を続けていれば、必ず上がって行くということです。
成績が上がらないのは、やり方や向かっている方向が間違っているからです。やるべきことを具体的に絞り込んでいないからです。

この結果、高校入学でもその勢いは止まらず、入試は6番での合格。
中間・期末は常にBEST10に入るくらいのがり勉タイプで、ちょっと欲をかいて、当時有名だった駿台予備校に通うため入塾テストを受けました。
すると何と「東大選抜コース」なるものに受かってしまったのです。

その意味では勉学に対する意欲は非常に湧いていましたが、1年間の駿台通塾を通じて、「自分は何で付属に入ったんだろう?」。自問自答の毎日でした。
付属とはいっても、学内成績順で志望学部が優先的に決まる仕組みでしたが、
高2が終わるころには、高3で留年以外のどんな成績であろうと、ほぼ希望する学部に進学できる権利は確保していました。
しかし、何か空しい。