2 無名弁護士 2018/07/28(土) 10:32:09.93 ID:N2KOy7ZI0
塾先生:「お子さんは偏差値40にも達していませんので、今から準備しても受けられるのは郁文館(仮名)くらいでしょうか?」
夏の暑さ厳しい時期に、受験の素人がのこのこと・・・。
今思えば、塾側も何で?って感じだったでしょう。
親も知らないような学校、しかもようやく塾側の口から出てきた学校で、今でも親には恥をかかせてしまったなーと懺悔です(笑)。
これ以降、我が家では私に関する中学受験の話は一切ありませんでしたが、
『中学受験』という言葉を知ってしまった親が、弟の時は意識するのはしごく当たり前のことでした。
(とりあえず、弟は、当時有名だった四谷大塚(仮名)の準会員にはなれたようでしたが・・・)
尚、悪友AはW中に合格し、周りはみんながびっくりしていました。
その他、開成(仮名)・麻布(仮名)・慶應中等部(仮名)・ラサール(仮名)に進学した同級生がいました。
中学校1年
地元は教育熱の高い比較的安定した地域でしたので、公立中学でもそんなに雰囲気は悪くなかった。
ただし、家は小学5年の弟・敏一(仮名)という中学受験生を抱え、受験というものがようやく自分にも感覚的にわかってきた。
勉強のできなかった小学生の私でも東大(仮名)や早稲田(仮名)・慶應(仮名)くらいの名前は知っていたが、
当時の私の理解では、「早稲田(仮名)や慶應(仮名)がいい大学ということは、学校で言ったら真ん中以上にいればいけるレベル?」という程度の認識。それが・・・・。
中学生になって、現実が少しづつわかってきた。
「このままではとんでもない状況になってしまうのではないか?」
「弟の中学受験が成功したら、兄としての面子は・・・?」
こんな何とも言えない不安感から、確か中学1年の夏に、大学に行くための超長期勉強計画表を作ったのを覚えています。
(中身はどうだったか忘れましたが・・・)ただし、学校の成績は350人中170番くらいと、ごく平凡でした。
中学校2年・3年
そんな折、中学2年の2月、弟の中学受験も終わりました。
受験に関してにわか仕込みの知識しかない家庭でしたので、やはり塾任せになっており、塾でもなかなか成績が上がらず、
今のように抑え校受験というのもない時代でしたので、入りたい学校(早稲田(仮名)・慶應(仮名)・明治(仮名)など付属と学芸中(仮名))を受けただけでした。
結局、弟の中学受験は今でいう『全滅受験』となり、地元の公立中に通うことになりました。
そして、私と弟にとって、人生の転機ともいうべき出会いが起きました。
それは、当時、首都圏では有名だった高校受験塾(仮名)が地元に教室を開くことになったことです。
その新規オープンからそこに通うことになったのです。
(私は新中2、弟は中学受験終了後に新中1から)
新規・小規模な教室でしたので、KSK(仮名)クラス、1コース、2コースの3クラスでしたが、私は偏差値50〜60の1コーススタートでした。
厳密には偏差値50を切っていたので2コースでしたがおまけの1コースでクラスでも下の方でした。
その塾で、私はI先生(仮名)という英語の非常に熱心な良い先生に出会い、初めて、勉強の仕方というものを教えてもらったのです。
そして、2年弱の時を経て、私は偏差値40台から68くらいまで上昇し、明治大学附属明治高校(仮名)という学校に合格しました。
(ちなみに弟も2年後に私と同じ高校に入学してきました。)
生まれてこの時まで、とかく勉強に関しては劣等感の塊で、勉強を面白いと思ったことがなかったのですが、
今やるべきことを具体化・可視化して、それが成績という形でダイレクトに返ってくるのがわかると、勉強というものが面白くなっていくものです。
そして学力とは勉強の仕方・正しい方向を向いた努力を続けていれば、必ず上がって行くということです。
成績が上がらないのは、やり方や向かっている方向が間違っているからです。やるべきことを具体的に絞り込んでいないからです。