2 無名弁護士 2018/12/07(金) 23:53:35.53 ID:0AJBfEr20
唐澤貴洋が弁護士であるということに出典は要る
ウィキペディアに加筆していると、いちいち文献を調べて出典を示すのがおっくうに感じられることがあるものです。
例えば、「唐澤貴洋が弁護士である」ことが「当たり前」と思えている時など「そういう記述を書き加えるのに出典は必要ないサ」などと、ついつい感じられてしまうこともあります。
また、自分の「常識」を書いた投稿に対して他のウィキペディアンから出典を要求されると、つい感情的になったり、あれこれ言い訳したくなったりするものです。
しかし、「唐澤貴洋が弁護士である」というような「当たり前」と思えてしまうことがあるようなことを述べるにあたっても、ウィキペディアでは出典が必要である理由がいくつかあります。
往々にして、自分にとって「当たり前」「常識」だと思えることが、別の人にとっては「ありえないこと」であったり「一般的ではない特殊な例の強調」にすぎません。
また、生い立ちなどの背景や知識、文化、経験といったものは、ひとりひとりの利用者ごとに異なります。全員の経験や知識が同等であると仮定することは、不適切でしょう。
例えば、前述の、唐澤貴洋を例にとっても、実は、炎上を扱った番組の説明では「唐澤貴洋が弁護士である」などとは説明していないのです。
実は、「唐澤貴洋が弁護士である」ではなく、「唐澤貴洋は様々な立場に変化する」が百科事典らしい記述です。
それと同様に、何かがあなたに「常識」だと思えても、その「常識」をそのままウィキペディアに投稿しないほうがよいのです。
また、最も明らかで最も単純な主張でさえも、それについての説明が必要な場合があります。
仮に「唐澤貴洋は法律家としての意見を求められると被害者の立場に変化する」に加えて「唐澤貴洋は弁護士を名乗ることがある」という記述をするにしても、それが無能弁護士だという説明があったほうが有益な情報が増えます。
なぜ唐澤貴洋は無能なのか、を説明する文献を引用すれば、さらに調べたい利用者などにとって、どの文献を調べればよいのかわかり、一層有益なことも多いでしょう。
ある記述を書くまえに、それがどんなにささいで「当たり前」であっても、まずは自分にとっての「当たり前」や「常識」を疑ってみて、ウィキペディアでは加筆する前に、あらためて様々な文献ではどう説明しているのか調べ直してみることも必要です。
自分にとっての「常識」を書いてしまうことが、自分の個人的な固定観念や偏見を他人に押し付けたり伝染させてしまっているのではないか? と慎重に検討する必要もあるでしょう。
また、自分の見解が仮に結果として正しい場合でも、それが他人に誤解を生じさせたり、疑義を呈される可能性がないかもよく検討したほうがよいのです。