18 - 風吹けば名無し@転載禁止 2014/12/24(水) 18:47:30 ID:5106b4e25
サヤ取りと日歩稼ぎで大成の村井啓助氏
鍋島高明・市場経済研究所代表
2012/2/18 15:00日本経済新聞 電子版
相場の盛んな三重県出身で、兜町暮らしが20年に及ぶが、投機、思惑はいっさいやらないという村井啓助。東京株式取引所の一般取引員の看板を取って話題を呼ぶ。昭和9年のことだ。当時の有力経済誌「実業之日本」は村井を取り上げた。
「投機万能、売った、買ったの兜町で、これはまた珍しくも投機、思惑は絶対にやらぬというモットーの取引員がいる。村井啓助君である。この20年間にわたる兜町生活を通じて、彼はほとんど相場を張ったことがないという。彼はどこまでも、サヤ取り、ないし日歩稼ぎ一点張りである。従ってその利益は、1銭、2銭という少額に過ぎないが、その代わり、ドカンと損をして後退することはない」
相場の高騰、一転してのガラに一喜一憂している連中を尻目に、平然と利ザヤ稼ぎを貫徹する。そして、「ちりも積もれば山となる」のことわざ通り、100万円の資産をこしらえた。村井は浮沈の激しい証券業を銀行経営と同様、「理屈のあるものにしたい」とし、こう語る。
「一般の人がややもすれば、われわれ同業者を“株屋”といって、飲み食いにぜいたくして金銭を乱費する階級のごとく理解しているようですが、私は株式取引なるものは合理的経営であり、堅実な意義深い職業であることを知らしめたい念願で、事業を経営してきました」
村井啓助は三重県亀山町の旧家に生まれ、少年時代は“おんば日傘”でなに不自由なく育てられた。28歳のとき、当時銀行を経営していた旧亀山藩の重臣たちに見込まれ、タイに渡り、バンコクでチーク材を輸入するため事前調査に当たる。ところが、銀行がつぶれてしまったため、村井は一転朝鮮を目指す。明治38年、31歳のことだ。当時、すでに開発熱が高かったにもかかわらず、地価はまだ安かった。「この時まず人より先に開発しようとしたのが彼だ。まことに少壮、覇気と独創に富む彼の面目がここにもよく現れている」(同)。
朝鮮に渡り7年、20町歩を越す農業地と1万坪強の住宅地を経営するに至る。社会的地位も上がり、京城民団議員など公職にも就いた。ところが大正3年、父の訃報で帰郷、家督を相続する。そのころ、朝鮮の開発も一段落していたし、小作人の待遇問題もやかましくなっていたこともあって内地に残ることにする。将来性ある仕事ということでいろいろ思案のあげ句、転身したのが証券業者であった。
そして、昭和12年7月14日、日中間の風雲告げるや、陸軍省に杉山元陸相を訪ね「今は非常時です。お国のために使っていただきたい」とポンと2万円差し出した。村井は語る。
「私は国家非常時の際、軍民一致の必要はもちろん、一朝事ある場合は全財産を投げ出して国家に奉公するだけの覚悟がなければならぬと常に感じているが、刻下国防献金は最も有意義なりと確信してその手続きをとった。少額ではあるが、過去20年間、まじめに事業を経営して得た浄財である。私の行為が多少でも国民に好影響を与え、国家のお役に立つことができれば幸甚の至りであります」
村井啓助の名は「東京株式取引所五十年史」には出てこないから、売買高はそれほど多くはなかったとみられる。村井が独立する前、属していた三協商会は店主が萩原六三郎といい、府下荏原郡の大地主で資金力は相当のものだったという。村井は当時の兜町では孤高の人だったかもしれないが、地元の伊勢新聞は応援のエールを送る。
「二十余年前に上京、帝都株式界に乗り出し、孜々(しし)として努力し、脇目もふらず、株式取引業に精通した結果、業績は日を追うて上がり、兜町における多くの同業者の範として絶大の信用を得ている」
=敬称略
信条
・株式取引は合理的経営であり、堅実な意義深い職業であることを世間に知らしめたい
・生来まじめで胆斗の如き度量と不撓(ふとう)不屈の気に満ちている快男児(伊勢新聞社)
・苦労人だけに顧客に対する親切はいうまでもなく、店員に対しても親切で、待遇もいい(実業之日本)
(むらい けいすけ 1875〜没年不詳)
明治8年三重県鈴鹿郡亀山町(現亀山市)で村井林七の長男に生まれ、亀山高等小学校を卒業後、宇治山田市(現伊勢市)の拓殖塾で漢学を学ぶ。同42年朝鮮龍山水産取締役に就任。大正4年上京し、東京株式取引所の取引員・中島卯三郎の経営に参画、中島没後に三協商会を興し、東株現物組合員となる。昭和2年三協商会は萩原六三郎名義で東株一般取引員の免許を得、同9年、三協商会から独立し、村井啓助商店を立ち上げ東株短期取引員となり、その後、東株一般取引員となる。