802 エッヂの名無し 2024/06/15(土) 23:19:27.492 ID:vpLMF2mUY
>>114
これ君たちはどう生きるか(原作)でコペルくんが気づいたのと一緒よな
霧雨の中に茫々とひろがっている東京の街を見つめているうちに、眼の下の東京市が一面の海で、ところどころに立っているビルディングが、その海面からつきでている岩のように見えて来たのでした。海の上には、雨空が低く垂れています。コペル君は、その想像の中で、ぼんやりと、この海の下に人間が生きているんだ、と考えていました。
だが、ふとその考えに自分で気がつくと、コペル君は、なんだか身ぶるいがしました。びっしりと大地を埋めつくしてつづいている小さな屋根、その数え切れない屋根の下に、みんな何人かの人間が生きている! それは、あたりまえのことでありながら、改めて思いかえすと、恐ろしいような気のすることでした。現在コペル君の眼の下に、しかもコペル君には見えないところに、コペル君の知らない何十万という人間が生きているのです。どんなにいろいろな人間がいることか。こうして見おろしている今、その人たちは何をしているのでしょう。何を考えているのでしょう。それは、コペル君にとって、まるで見とおしもつかない、混沌とした世界でした。眼鏡をかけた老人、おかっぱの女の子、まげに結ったおかみさん、前垂をしめた男、洋服の会社員、──あらゆる風俗の人間が、一時にコペル君の眼にあらわれて、また消えてゆきました。
「叔父さん。」
と、コペル君は話しかけました。
「いったい、ここから見えるところだけで、どのくらい人間がいるのかしら。」
「さあ。」
と言ったまま、叔父さんにも、すぐには返事が出来ませんでした。
「だって、ここから見えるところが、東京市の十分ノーとか八分ノーとか見当がつけば、東京市の人口の十分ノ一とか八分ノ一とかが、いるわけじゃない?」
「そうはいかないさ。」
叔父さんは、笑いながら答えました。
「東京の人口というものが、どこでも平均して同じなら、君のいうとおりさ。だが、実際には人口密度の濃いところもあれば、薄いところもあるからね、面積の割合で計算するわけにはいかないんだ。それに、昼と夜とだって、人間の数はたいへんちがうんだよ。」
「昼と夜? どうして、ちがうのさ。」
「そうじゃないか。僕や君は東京の外側に住んでいるね。それが、いま現に、こうして東京の真中に来ているだろう。そうして、夜になればうちに帰ってゆくじゃないか。そういう人が、ほかにもどのくらいいるか知れないんだぜ。」
「……」
「今日は日曜日だけど、これがふだんの日だと、ここから見渡せる、京橋、日本橋、神田、本郷を目がけて、毎朝、東京の外側から、たいへんな人数が押しかけて来る。そして、夕方になると、それがまた一時に引上げてゆくんだ。省線電車や市電やバスが、ラッシュアワーにどんなに混むか、君だって知ってるだろう。」
コペル君は、なるほどと思いました。叔父さんは、つけ加えていいました。
「まあ、いって見れば、何十万、いや、ひょっとすると百万を越すくらいな人間が、海の潮のように、満ちたり干たりしているわけさ。」
霧のような雨は、話をしている二人の上に、やはり静かに降りそそいでいました。叔父さんも、コペル君も、しばらく黙って、眼の下の東京市を見つめました。チラチラとふるえながらおりて来る雨のむこうに、暗い市街がどこまでもつづいているばかり、そこには、人っ子ひとり、人間の姿は見えませんでした。
しかし、この下には、疑いもなく何十万、何百万の人間が、思い思いの考えで、思い思いのことをして生きているのでした。そして、その人間が、毎朝、毎夕、潮のようにさしたり引いたりしているというのです。
コペル君は、何か大きな渦の中に、ただよっているような気持でした。