273 風吹けば名無し 2018/04/13(金) 22:53:28.84 ID:QDz1PylQa.net
神戸大空襲
神戸とその周辺地域は1945年(昭和20年)1月3日から終戦までの約8ヶ月間に大小合わせて128回の空襲を受け、特に2月4日の無差別焼夷弾爆撃は後の東京大空襲に始まる市街地絨毯爆撃の実験的なものと言われ、
神戸でも3月17日および6月5日の市街地絨毯爆撃と川西航空機甲南工場を標的とした5月11日の戦略爆撃によって大きな被害を受けた。
それ以前の空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃であったものが、この日の爆撃が焼夷弾による爆撃へとアメリカ軍の爆撃方針を転換するための実験的焼夷弾攻撃であり、兵庫区周辺、林田区、湊東区に特に集中し投下された。
3月10日の東京大空襲を皮切りに都市部に対する無差別焼夷弾爆撃が本格化し、名古屋、大阪への空襲の後の3月17日未明には、兵庫区、林田区、葺合区など神戸市西部が壊滅的被害を受けた。
5月11日には、東灘区の航空機工場が精密爆撃を受ける。
この空襲では、灘区・東灘区が大きな被害を受けた。
さらに6月5日の空襲により、西部の垂水区から東部の西宮市までの広範囲が爆撃され、それまでの被害が少なかった神戸市の東半分が焦土と化し、3度の大空襲でほぼ神戸市全土が壊滅した。
被害面積は神戸周辺都市部の21%に及び、戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,002人とされるが、これは確定的なものではなく実際はさらに膨大な被害であったと推測されている。
神戸市の人口1000人当たりの戦争被害率は47.4人であり、人口および面積から換算した被害率としては当時の五大都市の中でも最悪の数字であった。