449 - 来世はカメムシ 2024/02/21(水) 00:33:45.95 ID:OQxnIcVn0
今日は朝練が無いので他の大勢の生徒と同じ時間に登校している。
練習で追い込んでいない状態と言ってもやはりこの上り坂はきつい。登り切った所で一休みが必要になっている生徒もいる程で、野球部の皆の足腰が強くなるのも納得がいく。遅刻してダッシュで駆け上がる事は絶対に避けよう。
「これで登頂…と」
運動量は落ちているとは言え腐っても野球部の監督。息を切らす事無く登り切り、そのまま校門をくぐろうと思ったが、脇に立っている人物を見たら足が止まる。
「ああ…ええっと……」
校門を通過している誰もがつい足を止めたり、振り向きまた二度見と、気を留めている。無理もない。大人し気な顔つき、サラサラの長い金髪、スラっとしたスタイル、まさに正統派美少女以外形容しようがない容姿。何よりセーラー服の生徒が行き交う校門付近、たった一着の紺色の制服がその姿を一際目立たせた。あのお嬢様学校として有名な界皇高校の制服である。
無論、校門の前で立っていると言う事は即ち誰かを待っていると言う事。つまりは界皇の生徒、しかも飛び切りの美少女とそんな関係になっている人間が本校にいるのだ。誰だろう、と生徒達の声に犯人捜しの雰囲気が漂い始める。
僕はその話の輪に入れない。だってその相手は僕だもの。うん、これがギャルゲーだったら悪友ポジの男子にハーレムだって突っ込まれるな。
人が少し減ったタイミングを見計らって、僕は彼女の近くに歩み始めた。
「鎌部さん」
名前を呼んだら向こうもこちらに気が付いたようで、よく見るむすっとした表情で睨まれる。あ、怒っているなこれ。振り向きはしたものの返事は無い。
「……鎌部さん?」
今度も返事は無し。更には目を逸らされてしまう。
「あのー鎌部さん……」
「……千秋」
「はい?」
「いい加減千秋って呼んでほしいんですけど。鎌部さんなんて余所余所しい」
「そのー……やっぱり物事には段階があるので…」
「敬語もやめてほしいんですけど」
世間一般的に言えば僕らは『恋人』だろう。だがそんな関係になってから日が浅い事もあってまだ『鎌部さん』呼びが抜けていない。公衆の面前で次の段階に進む勇気はなかった。ムードと言うか、TPOと言うか。『千秋』と初めて呼ぶに相応しいタイミングはきっと他にある…と思う。
「有原の事は『翼』って呼んでるのに」
「あー……一応長い付き合いですから……」
つまるところ嫉妬である。確かに他の異性とは下の名前を呼び合う仲、でも自分は『さん』付けで敬語、恋人としてはあまり気分の良いものではないだろう。
「もっと私の事をちゃんと見てほしい」
「ごめんなさい…善処しま…するよ」
取り合えずまずは敬語のラインを越える。
「それで、今日はどうしたの?」
まさか『千秋って呼んでほしい』と伝える為だけに朝からここに来た訳はないはずだ。僕の問いに鎌部さんは『あ、そうだ』と思い出したような表情をすると、エナメルバッグの中から包みを取り出した。
「これ」
包みはシンプルな青−彼女の瞳に近い色−の布。中には楕円形だろうか、箱の形が見て取れる。
「作ったから、食べてほしいんですけど」
鎌部さんは包みをちょっと乱暴に僕の手に押し付けた。
「ええっと…つまり」
食べて欲しい。片手で持てるサイズの箱。箱から伝わる温かさ。
「てづく…」
「態々言わなくていいんですけど!」
遮られるが、言わずとも手の中にある箱が何かは把握出来た。俗に言う『彼女の手作り弁当』だ。
「箱は洗って明日返してくれたらいいから」
よく見ると彼女の顔はアウトカウントのランプより真っ赤。また怒られそうだしこれについては指摘しない方が良さそうだ。
「ありがとう」
「……彼女だから当然なんですけど」
鎌部さんはまた明日、と顔を紅潮させたままダッシュで坂を駆け下りて行く。
姿が見えなくなったのを確認した後、お弁当箱の蓋を少しだけ開ける。何を作ってくれたのだろう。
「……これは」
水気が多いご飯、至る所に焦げ目がついた生姜焼きにカットサイズが不揃いな千切りキャベツに湯で野菜。
「…はは」
台所で悪戦苦闘する彼女の姿を想像し、嬉しさでつい頬が緩んでしまう。ここまでしてくれるなんて、次会う時はちゃんと『千秋』って呼ばなきゃ。
「あら鎌部さん、指のその切り傷や火傷は何? 投手なんだから手や指のケアはしないとダメよ?」
「………なんでもない。投げるには特に問題ないから」
「そう。でも今度は私にも手伝わせてちょうだい」
「!?」