1 この物語はフィクションです 2014/06/06(金) 06:10:39 ID:D1RUjNqQ
俺はできる。
少し開いた窓から颯爽と吹き込む午後の風が揺らしたのは、父のその両耳にかかる純白のもみあげ。
白い毛髪の一本一本が、同時に射し込んだ陽光を跳ね返し、まるで生物のようにざわざわと蠢いてみせた。
気にも留めず父は開いた本の頁を目で追い続けている。
俺が見つめていることにさえ気付かぬほど没入している様子だ。
こんな風に俺は、何時の時も遠くに居て見つめている。
何時の時も決して触れることは出来なかった、あの純白のもみあげ。
思えば、もみあげはいつも僕のそばにあった。
生まれて初めて眼を開いた日、その黒さに目を瞠った。
二つの脚で立ちあがった日、その不思議への好奇心が理由だった。
初めて人語を口にした時、それを手にしたい欲望を解して欲しかった。
父の大きな胸に抱かれる時、好ましく感じたのは、そのぬくもりでなく、やさしさでもなく、より近くに望むもみあげの形質。
今は白い父のそのもみあげ、長い時の中で姿を変えながらも、常に私を虜にしてきた。
けれど、もみあげに惹きつけられ、もみあげを求め、もみあげに偏愛する幼い僕を、それに触れようとすれば母は、容赦なく叱り躾を試みるのだった。
忘れもしない、俺がまだ幼稚園児だったあの時、海外出張で何日も家を空けたもみあげを求めて泣いた。泣き叫んだ。たれ目を真っ赤に腫らして、父にクリソツのアヒル口を痛いほど歪ませて、大泣きする小さな俺に、母ときたらもみあげの悪口を吹き込んだのだ。
曰く、お父様のもみあげには毒があるのよ、絶対触っちゃだめよ。
僕は、絶望した。
今にして思えば、それは単なる息子のもみあげ愛に困り果てた母のその場凌ぎの詭弁であったにせよ、
幼く素直な私は、母の言葉をそのまま信じ込んでしまったのだった。
泣き止んだかと思うと暫し放心し暫し突っ立っていて、そのまま、母が追いかけるより速く、当てもなく自宅を飛び出した。
理性より深く魂の奥底から沸沸と湧き上がって来るもみあげへの想い。
生まれつき備えていた「父のもみあげを手にしたい」という、本能に限りなく近い、根源的な欲望。
呼吸するように、心臓が鼓動するように、本能的欲求のように、それらと同列にもみあげ愛。
それは遂に、誰にも理解されることはなく大人になった。弟や友人や精神科医や恋した相手や、そして、何より常に自らを理解して受け入れてほしい筈の父と母にさえ。
向かい合って掛けるテーブルの正面、読書に没頭する父はこちらへ目もくれない。
白くて蠢くもみあげは、まるで何か発情した小動物のように求愛のダンスを舞い続ける。
美しい。
向かいに掛けた私の視線の先、父の顔面の両脇、耳の直ぐ隣り。
「親父、」
もはや抑えきれぬ感情を隠し震える声で呼びかけた時、初めて父がこちらに目線をくれる。
「親父、もみあげ!w」
振り絞った声がリビング中に大きく木霊した。
俺は、まだ何も知らないあの日の幼子に返ったかのような笑顔をしたと思う。
吹き抜ける風より速く二つの腕を肩から伸ばして、その両手で父の頬を捉えた。
挟み込んだ。
父は大きくて鋭い目を、さらに大きく見開いて真直ぐな視線をこちらに向かわせてくる。
突拍子もない出来事に、呆気にとられたアヒル口はだらしなく隙間を開けている。
手の中のふくよかな頬を優しく揉みしだきながら、いま頭にはこれまで生きてきた人生の時々の情景と、そして、もみあげを想い続けてきた痴情が走馬灯としてよみがえってきた。