569 3/3 2021/05/07(金) 05:07:02.53 ID:hbDE6JSq0
「……余計分からんな。一体どういうことなんだ?」
「なに、簡単なことですよ。トック君は現実には仏陀、あるいはその教えによる道徳も、基督、あるいはその審判による救済も既になく、その上現実というのは自分の心によってのみ捉えられる物ですから、我々は現実という心の中で自由にできる救いのない芝居の主人公として死ななければならないことを書いたんです。実に厭世的でしょう?」
「なるほど……それで、現実の裏にある継ぎはぎだらけの歴史書というのはなんだ?」
そう聞いた俺に対し、彼はまるで無邪気な子供のように質問を返す。
「心の中にある現実の表側には自分がいる。じゃあ裏側には誰がいると思いますか?」
「……他人か?」
「正解です。継ぎはぎだらけの歴史書というのはつまり、他人の現実の中で作られた自分なんですよ。そこには僕自身や記憶や噂話が継ぎはぎになってできた歴史書のような人物像が——」
「もういい。お前が想像力豊かなのは十分すぎるぐらいに分かった。俺が知りたいのは、それに対するお前の疑問だ。」
少し不満げな瞳が、話を遮った俺を見る。じっと、心の奥まで見透かそうとしているように。
「今から言おうと思ってたんですが……とにかく、僕は気になったんですよ。」
瞳が一気に近づく。それと同時に、俺は唇を奪われていることに気づいた。
甘く、熱く、ねっとりとしたキス。それは恋人にするもののはずだ。ではなぜ彼はそんなことを俺にしているのか。
そんな疑問を抱きながらその口吻を甘受していると、彼は唇を離して、俺の耳元に運んだ。
「もし、他人の現実、その表舞台に立てるほど、互いを知り尽くしたら、どうなるのか。」
じっとりと湿った甘い音色。まるで世界一愛している人へ手紙を書くように、優しく、強く、俺に向かって声を紡ぐ。
「あいつが求めていたのは僕の身体だけだった。その呪縛から解き放たれた今、ようやく僕は、人のことを、あなたのことを、知り尽くしたいと思えるようになったんです。」
彼は身体を売るという道徳上の罪を犯した。本来なら、彼にはそんなことを求める権利などない。だが、彼は続ける。
「河童は言いました。「いかなる犯罪を行いたりといえども、該当罪を行わしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を処罰することを得ず」と。だから、あいつが死んだ今、僕はまた人を愛することができるはずです。」
再び、彼の顔が俺の前にやってくる。誘惑するように、または受け入れるように、彼は言った。
「一緒に、しましょう?」
きっと、これは故人への冒涜であり、背反であり、嘲笑であるのだろう。だが、彼の想いは、俺をその冒涜へと駆り立てるのに十分だった。
俺も、彼のことが好きだったから。
「勿論、いいぞ。」
バーテンダーが気を遣って渡してくれた一本の傘を差して、俺たちは店を出た。