37 撃たれても動く名無し@転載禁止 2023/06/12(月) 19:57:36.08 ID:Hwrex/p80主
たとえばシトー派の修道院の成立の状況をみてみよう。シトー派の人々はもともとクリュニーの修道院に属していた。
そもそもクリュニーの修道院は、世俗的な権力と結びついた教会のありかたに飽き足らない人々が、イエスのような暮らしをしたいと考えて設立したものだった。
しかし信徒の寄付と遺産相続によって、やがてこの修道院は巨大な富を築くようになる。
このクリュニーの修道院の世俗的なありかたに失望して、11世紀末に21人の修道士たちが、荒れ地の「木やイバラを切り倒して」、シトー修道院を建設したのだった。
彼らは「世俗間からの分離、物質的な利益および放縦からの開放」を目指した。しかしこの修道院もまた、「購入と贈物によって財産を増やし、苦心の開放によって資本を蓄積」するようになり、やがては世俗社会の一部になってしまう。
修道院の歴史では、ほとんどつねにこの逆説が反復される。富を蓄積することによって堕落した修道院に反発して生まれた新たな修道院も、やがては経済的に繁栄するようになる。
労働の思想史 p68
簡単に言うと修道院は質素倹約を努めるがために、必然的に望んでもいない富が貯まっていくって事なんやが
このシステム的な欠陥がすげー面白いなと思ったわ
修道院にいる人間は敬虔な教徒だから真面目に働くし、浪費したりもしないし、修道院内での仕事がうまくいくよう技術的にも創意工夫を凝らすんやが
すると必然的に、生産性が高まりすぎて結果的に富がすごい勢いが貯まっていく
この無欲に奉仕すればするほど欲の象徴である富が近づいてくるっていうシステム見て、宗教と資本って相性良すぎやろって思ったわ