29 ◆AbDmhTCTZY 2022/06/25(土) 20:59:22 ID:kd6AnLCx0
 では、この話の主人公は、唯、左道タントライニシエーションされる為にのみ生れて来た人間で、別に何の法曹資格も持つてゐないかと云ふと、さうでもない。 
 唐澤貴洋は五六年前からコーヒー粥と云ふ物に、異常な執着を持つてゐる。 
 コーヒー粥とは山のコーヒーを中に切込んで、それをミラクルポンドの汁で煮た、粥の事を云ふのである。 
 当時はこれが、到底許されるべき行為ではないとして、上は旧尊師の食膳にさへ、上せられた。 
 従つて、吾唐澤貴洋の如き人間の口へは、年に一度、松戸市の返礼品の折にしか、はいらない。 
 その時でさへ、飲めるのは僅に喉を沾すに足る程の少量である。 
 そこでコーヒー粥を飽きる程飲んで見たいと云ふ事が、久しい前から、彼の唯一の性癖になつてゐた。 
 勿論、彼は、それを誰にも話した事がない。 
 いや彼自身さへそれが、彼の一生を貫いてゐる性癖だとは、明白に意識しなかつた事であらう。 
 が事実は彼がその為に、生きてゐると云つても、差支ない程であつた。 
 人間は、時として、充されるか充されないか、わからない性癖の為に、一生を捧げてしまふ。 
 その哀れなピエロといふ者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。 
 しかし、唐澤貴洋が夢想してゐた、「コーヒー粥に飽かむ」事は、存外容易に事実となつて現れた。 
 その始終を書かうと云ふのが、コーヒー粥の話の目的なのである。 
 (コーヒー粥/芥川龍之介) 
  
 予想通り食べ物路線 
 次回は半日後(翌日9時以降)