とりとり
唐澤家&河野家先祖調査路線
1001 レス · dat原文
現状唐澤家の男系祖先は吉信までしか判明してないんか
核投下跡地
横浜にあったお墓は別人?
>>4
唐澤家の墓は横浜市下田町サティアンからすぐ近くの川崎市やで
もし洋が昇天した場合は横浜のお墓まで行けば確認出来るんですかね
洋はATUSHIの眠っているところに入るんじゃね?
岩間みたいに盗まれそうだけど
>>7
ほぼ婿同然とはいえ、唐澤家家長が河野家の墓に入ったらいかんでしょ
そもそもATSUSHIが母方の爺さん家の墓に入ってる事自体が謎だけど
何故ATSUSHIは河野家の墓に入ったんだろう
墓が発掘されたときはATSUSHIの死が急だから唐澤家のお墓が無いせいだと思っていたけど吉信の墓が見つかった今となっては…
長男以外が母方の墓入るなんて普通だろというツッコミ数えきれないほど見てきた
ATUSHIかわいそうだな
洋さんや厚子が亡くなっても一緒に眠ることはないんか
お墓の名前も間違われるし
>>9
東京からだと川崎・無量院まで遠いから
近くの河野家に入れて貰ったとかやないか。
ただ墓誌の名前ミスっとる事実からすると
墓参りの便まで配慮したかは疑問やねぇ。
浦島太郎の話みたいで鞠
http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000045.html
歴史ある古い寺なんやね
洋さんって兄弟他にいないの?
無能院
無量院が本当に唐澤家の菩提寺かは不明だ
吉信の名前はなかったし、唐澤という苗字自体は結構いるからな
吉信が次男三男で分家したのならば一族の菩提寺とは別の寺に入っていると思うが、長男だったら本家の墓に入っているのではないだろうか
ということは必ずしも横浜近辺に墓があるとは限らない
吉信住所の登記簿は貼られてたが閉鎖登記簿、土地台帳は誰か取得した?
名前は多分出ていると思う
サヒケー過去ログ
https://gotanda.xyz/test/read.cgi/simonton/1465652899/
久々に事実追求路線再開かな
これまでの経緯~唐澤家編~
一英の紳士録より洋の父「吉信」開示(唯一の確実な情報)
https://sonshi.xyz/wiki/ファイル:一英.jpg
『鉄鋼年鑑』等により同名の人物が横浜市港北下田町465に住んでいたことが発覚
住所付近を探索すると川崎市内の無量院に唐澤家の墓を発見「孝雄」「シゲ」「孝信」「政幸」
「孝雄」住ポンより川崎市幸区小向西町4-52-1登記簿開示で無量院の墓の主と確定、現在「眞美」所有
→孝雄一家は別人か?
下田周辺の地図開示により地番及び現行表記の住所確定
横浜市港北下田町465-11(旧式表記)→横浜市港北区下田町3-17-59(現行表記)
登記簿開示
http://i.imgur.com/HWpETF0.png(土地)
http://i.imgur.com/5sd7z7Q.png(建物)
1990年より前に吉信一家がこの土地を去ったか?
→電子化されていないような古い情報を掘る必要がある?
>>15>>16 出会いに感謝
少年時代の洋が住んでいたと思われる横浜市港北区下田町3-17-59は
日吉駅や日吉本町駅からも徒歩で20分ほどかかるところなんやね
無量院へは車で19分か・・・
登記簿に載っている吉田賢一なる人も田園調布サティアンから近いところに住んでいて徒歩で6分
ウィキによると唐澤吉信は1981年より前に退職しているはずだから
尊師が幼少時代世田谷で暮らしていたとの自分語りから世田谷に唐澤家三世代同居指定という説は無いかな
厚子が嫌がるか
雑談スレより
859 :無名弁護士:2017/06/03(土) 23:53:05.36 ID:0Pr00BaE0
将来洋が墓を作ってそこに厚史を移す気があるのなら骨壺で残っている可能性が高い
個人的な推測全開になるが洋が田サティに居るのは長男ではないためであるとするならいずれ自分の墓を作ると思う
さらに洋死にかけっぽいし近い将来墓を作って厚史の移動があるのではないかと踏んでる
だから将来の尊師の墓特定のために墓゜けんまは定期的にした方が良いと思ってる
岩間の父親の遺骨が盗まれたけど、絶対にATSUSHIの遺骨で鶏ガラスープ作って尊師に送りつけたりしたらあかんで
>>18
唐澤家の墓は尊舎利を納めるストゥーパやでな
全世界の教徒が一生に一度は巡礼に来る聖地
>>9
出龍は事実上の入り婿扱いだったという事やない?
ある時期まで新日本監査法人を仕切ってたのは出龍やしな
1Aが衰えるにつれて、後ろ盾を失い失脚したのか
東芝が発覚したときに備えて院政に移ったのかは知らんが。
入り婿だったとしても、教徒の監視圧力に耐えて東光院に納まるかは微妙かもしれん。
洋さん開示された写真かなり痩せてたが今どうなっているんやろ
尊師が坂根ネキに接触したのも結婚を焦らなければならな何かがあったのかも
結婚を焦らなければならな何か(洋のスネが変色してきたナリ…)
出龍、死ね!w
菅谷真理雄と英代(尊師の伯母)には子供がいないのでしょうか
尊師の従兄弟は河野沙季と田中カズコ姉妹だけ?
あと出龍に兄弟がいるのかどうかも気になる
もしいたら唐澤家の血統を尊師で途切れさせられない
尊師に連なる恒族の血統は存続させるべき
河野沙季はまだ独身なんだろうか
相続とか1Aの長男の娘にしてはあまり優遇されてないのはなぜだろう
沙季ちゃんって名前は可愛いけど何歳なん?
唐澤一家が下田を去ったのは1990年やぞ
恐らく1990年にヨシノブは死んでる
下田サティアン消滅と田園調布サティアン建設まで2年くらい空白期間があるんよね
>>30
唐澤吉信は1918年生まれだから1990年時点では71歳?
何処かにお墓あるんやろか
あるならなぜそこにATSUSHIは入ってないんやろうか
>>31
中学時代に東京に戻っているから横浜のどこかには住んでいたんやろ
幼少期に住んでいた世田谷もどのへんなのか
いつとは言わんが墓けんましてきました
http://imgur.com/a/P2Zot
恒墳の近くに人がいたので写真撮れなかった 当職、無能w
http://imgur.com/a/UvULF
代わりと言っちゃなんですが
http://imgur.com/a/lMXWV
10万、寄付!w
お寺の屋根を直したときに寄付したようですねぇ
近くの多摩川浅間神社には寄付した形跡無かった
1Aマニア絶頂射精
これには天国の1Aもニッコリ
3分の1パカを気前よく出す辺りノブレスオブリージュを弁えてる感じがあるな
それに比べて下心丸出しで何パカもつまらん絵につぎ込んで 孫として恥ずかしくないのか?
ゲイ術家の支援もノブレス・オブリージュナリよ
>>33
素晴らしい事実追求の方がいると思った一瞬でした。
出会いに感謝。
>>33
1Aが生きてる間なら墓壊してもセーフだったってこと?
今はNG
474 :無名弁護士:2017/06/22(木) 16:11:19.29 ID:SbKdTixY0
唐澤家最大の闇は、尊師ではなく墓石に刻まれた厚史の字が雑に訂正されていたこと
業者のミスなら墓石ごと取り替えるから、あんな雑な直し方はしない
ということは依頼側が息子の字を間違えて書類を提出したということになる
自分の息子の字を間違える親…
そして、金持ちなのに間違えた墓石を作り直すのではなく、雑に訂正するだけで終わらせるという異常性…
この一家と比べたら、長谷川家の方が百倍マシなのではないだろうか?
561 :無名弁護士:2017/06/23(金) 09:08:58.80 ID:a5hEgwEvi
>> 535
それと墓゜を掃除した際気づいたことなのですが、水鉢の中には苔が生えていて、最近花が生けられた形跡もありませんでした(水鉢や墓周辺に落ちていた植物は近くの木の枯れ葉のみ)
花は「東光院の人が枯れてから捨てた」ということで説明出来ますが、水鉢が苔まみれだったことは「墓が十分に掃除されていない」、転じて「あれだけ家の近くにあるのに、まともに墓参りに行っていない」ことを示していると考えますを
最も最近の墓参りシーズンが春分の日ですので、もしお墓参りをきちんとしているならもう少し綺麗に保たれているはずです。
ここから導き出される結論は、「あれだけ墓の近くに家を構えている河野一族が、誰一人としてまともに墓参りに行っていない」という不気味な事実です。
562 :無名弁護士:2017/06/23(金) 09:11:39.03 ID:a5hEgwEvi
あの一族やっぱりおかしいですよ
尊師が壊れたのも河野一族の異常性にあてられたのが理由な気がしてきました
この点に関してだけは、少し尊師に同情しています
1Aの若いころの写真ないのかな
今の尊師の年くらいの
大東文化大学の図書館とかにありそう
唐澤家は新盆なのか旧盆なのか
明日あたり誰か墓けんますればわかるかな
昭和34年(1959年)横浜市港北区住宅地図
https://i.imgur.com/bQvHmMV.jpg
これ以前の住宅地図は見つけられなかったけど、
唐澤吉信は昭和34年には港北区下田町465に住んでいた模様。
ただ周囲が耕作地になっていることや隣も新築中になっているから戦後に移住したと思う。
ちなみに下田町は画面左下にもある田辺さんの一族が地主。
有能
1959年から下田かよ
てことは30年はあそこにいたんよな
なんで河野家のそばに…
>>44
昭和64年(平成元年)1989年の横浜港北区住宅地図
https://i.imgur.com/VhXhgen.jpg
家屋調査は昭和63年らしいので、少なくとも1988年は下田に在住の模様。
当職無能なので、これ以降の住宅地図はまだ調べておらず近日中にupします。
536 :[´・ω・`] sp1-72-5-13.msc.spmode.ne.jp:2017/07/17(月) 16:58:26.96 ID:Nd9ASOHb0
墓参りに行ってきました
http://i.imgur.com/mbLB7BR.jpg
http://i.imgur.com/7GrMTed.jpg
http://i.imgur.com/ob56uDk.jpg
http://i.imgur.com/dyU0fSx.jpg
http://i.imgur.com/vqcU4AM.jpg
http://i.imgur.com/WlmAKNk.jpg
http://i.imgur.com/usINeLz.jpg
537 :無名弁護士:2017/07/17(月) 17:02:35.35 ID:S483WHdTI
>>536
お線香は>>536が置いたんか?
538 :[´・ω・`] sp1-72-5-13.msc.spmode.ne.jp:2017/07/17(月) 17:03:30.95 ID:Nd9ASOHb0
>>537
行った時には既に置かれていました
花も同様です
541 :[´・ω・`] sp1-72-5-13.msc.spmode.ne.jp:2017/07/17(月) 17:07:07.43 ID:Nd9ASOHb0
ついでに田園調布サティアンにも行きました
人の気配は感じられませんでした
http://i.imgur.com/NztOlRk.jpg
http://i.imgur.com/wQ1Bqdv.jpg
http://i.imgur.com/yenARAg.jpg
http://i.imgur.com/rybikZu.jpg
http://i.imgur.com/4TIy9Ao.jpg
>>43
新盆であるならばこの花は唐澤家か河野家が飾ったかもしれない
線香の数は見えてるだけで12本
新盆もそうだけど1Aの命日も近いしな(7/24)
親族の集まりがあったと考えるか1Aの教え子あたりが集団で墓参りに来たのか…
成程新盆じゃなくて
http://i.imgur.com/7GrMTed.jpg
に1A一周忌の卒塔婆があるから法事があったのは確実やね
そっちかもね
371 :無名弁護士:2017/06/22(木) 13:50:41.06 ID:OJjbCPUYi
けんま報告その2
尊師のテレビ出演をATSUSHIに伝えに行きました
http://imgur.com/nUuT20e.jpg
合掌。
http://imgur.com/3XwG5KG.jpg
http://imgur.com/DbJDlOK.jpg
厚史(志)の「史」の字が少しだけ汚れていました
それ以外は小康状態を保っている様子
http://imgur.com/tBMOIEV.jpg
簡単な掃除とお供え物をして退散
弟をダシにテレビで被害者面する兄のことを、亡き弟はどう思っているのでしょうか
http://imgur.com/01BbxgS.jpg
http://imgur.com/7VrFvAf.jpg
おまけ
監視カメラ
http://imgur.com/lvLiEZ6.jpg
http://imgur.com/4IYJGl8.jpg
http://imgur.com/DXCwkQM.jpg
・・・と思ったけど6/22の時点で既に卒塔婆あったわ
当職頭唐澤 やっぱ新盆かな
>>44
の地番456となってるけど間違いだよな?
1988年吉信生存
1990年の航空写真やとまだ下田サティアンは現存
やはり1988~1990で吉信死去かねぇ
薄情な尊師だから吉信の存在なんか忘れてるんだろうな
齧るスネもないし
ヨシノブの墓特定はよ
来年で生誕100周年やぞ
吉信生きてたらはよ死ね
菜子も死ね
まず唐澤家の祖先の出自がわからんからな
河野家は広島やけど
唐澤の苗字の由来って「水の無い涸れた沢」なんだな
通りで火か消えないわけだ
>>50
そうか1Aの一周忌も近いんか
今週末辺り東光院で法事とかあるんやないか?
先週の新盆はお寺も忙しいだろうし
地番さえ正しければだが
唐澤吉信が何年から下田町に土地を持ったか・前の所有者
などの情報が近日中に判明するかも知れないでふ
とりとり
>>53
>>61
地番は「下田町465」が正しいです。
昭和34年の地図が間違えています。
その後の昭和39年49年などでは「下田町465」となっていました
>>62
出感でふ
吉信の自動車鋳物株式会社(アイメタルテクノロジー)勤務は鶴見区の工場関係なんではないかと思いますを
土浦市の本社勤務だとすれば車を使っても毎朝はとてもきつい距離なので
唐澤姓は信濃国に多く、尊師の先祖もそこに暮らしていたんではないでしょうか
広島藩士か豪農の子孫と考えられる河野一英家と釣り合う家ですから上級国民なことは間違いないでふ
>>63
自動車鋳物株式会社は1937年に鶴見区で設立されたんですね
その後1970年に土浦に工場が施工されたようです。
なので吉信氏は鶴見区に勤務していたのでしょうね
HPより
1937(昭和12)年
いすゞ自動車(株)(当時、東京自動車工業(株))の要請により、資本金30万円をもって横浜市鶴見区に設立。
1970(昭和45)年
土浦工場が竣工。JT H、ASN両鋳造ラインが稼働開始。
いすゞ自動車に唐澤吉信さんご存命ですかって聞いたら答えが出そうやな
秋葉原の革製品屋「唐澤商店」は
知る人ぞ知る拘りの名店やったんやけどなぁ
有能教徒たちの出会いに感謝
吉信は洋に似てるのかな
唐澤姓が信濃国に多いということはこの唐澤商店も尊師と遠い親戚なんやろか
http://www.mapion.co.jp/phonebook/M02031/20383/22030193317/
スレ違いかもしれませんが、漫画「疾風の勇人」6巻に河野一郎がキャラ出演しているそうですを
とりあえず取り急ぎ
そういえば唐澤吉信は明治大学商学部出身で河野一英の二年先輩だった
両家の婚姻がこの辺りに関係があることは充分考えられる
遙かに後の時代になるが恒心ファミリーではへきへきが同学部の卒業生
平行線は必ず交わるんだね
とっかかりが見つかった
想像以上に闇深案件かもしれん
まず朝鮮に進出して事業を進めとった伊勢商人の村井一族と一三が出会って縁を結んだところこそが
河野唐澤家の上級国民入りの全ての起点なんですよね
>>71
どうも河野兄弟の運命の分かれ目はこの時期の事と関係があるようで
身が震える
詳細は再来週あたりに
吉信の生存安否だけは知りたいわ
99.8%死んでると思うけど
100歳以上の人口が6万人を超えたので
98~99歳の吉信くんも意外と生きてるかも
>>68
戦後日本の経済話やと出て来るんやね1A
レジェンドは伊達やないな
漫画自体の作者は昔シャアの漫画描いとったけど
どこぞのガンダムファン(51)とレジェンド会計士を繋ぐ
どうでもいい相関だできたな
>>72
総理大臣の吉田茂や麻生家、天皇家との縁も村井家からスタートしてるんやな
単純な財力なら1A単体でも上級と呼べるやろけど
http://imgur.com/9f5lMDm.jpg
まずは第一段
佐古豊次郎編『広島県下役員録』 広島独立通信社 明治42年11月刊より
河野兄の身分と名前が載ってます
>>77
モンうお
http://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/34B0050027.html
ここに河野本家ないし江戸時代までの本家の墓があるのかもしれませんね
墓の家紋で伊予河野氏が帰農した家かわかるかも
大正時代に陸軍砲兵から台湾で警察官になった(欧州大戦後の軍縮政策によるものか?)「河野唯一」氏が本人なら
兄弟で外地の台湾朝鮮に渡ったことになりますな
広島県は当時最も移民を排出してた地域なので当時としては周囲の流れに乗った感じですかな?
近々東京行くんやけど、これやってくれってのある?
けんまやブルーマップ閲覧など
>>78
まだコピーが手に入っていないのですが、河野兄も朝鮮に関係していたそうです
村井家と婚姻関係を結び活躍した弟とは異なり、その後は残念なことになったようで……
河野唯一の血筋は絶えてたんか…
>>79
少し遠いですが横浜地方法務局の港北出張所いけませんか
土地台帳を確認したんですが465-1、2、3は全て畑で宅地・唐澤姓の所有者は見当りませんでした
気になったのは465-1は477の田辺正の所有地で前の所有者は田辺小左衛門ということぐらいです
この人は名主として名前が残ってるようです
台帳には昭和34年までの記載がありますが家が建てられたのはどうもその後のようで
昭和初期に畑地だったという情報も入手しています
唐澤吉信はその後に土地を買って住んだのでは
参考になりませんが誰か土地台帳の画像入りますか?
河野家関係では河野光次という人が浮上してきました
『近衛篤麿日記 別巻』555~556頁所収の書簡で緑井村居住が裏付けられるのですが
この人どうも田園都市株式会社に関係しているらしい
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/pdf/authors_request_20161111a.pdf
>0263 河野光次 こうのこうじ 日本【53巻 p.395】田園都市株式会社関係
偶然にしてもここまで要素が被ってくると気になります
河野兄弟の縁者の可能性が強いですね
尾崎咢堂(行雄)と関わりがあったらしいです
もしかすればここから探せばもう少し分かるかも知れません
大多摩川桜会で近衛首相がどうだの書いてあったし当時の東京市長やった尾崎行雄とも関係はあったかも知れんな
公家界とのパイプと言えば尊師の前世こと嵯峨公勝の嵯峨家があるし
>>68 >>75
一英やなくて一郎か?
政治家の方の河野一郎と間違えてへんか?
1991年唐澤洋さんがどこに住んでるか判別できそうですかね
下田サティアンも田園調布サティアンも無い空白の1年や
下田の墓地に吉信は眠ってると思うけどなぁ
30年近く居座った横浜やぞ
ネットの情報からですが、河野光次は尾崎行雄の書生だったみたいでふ
株内の一人と思われ、もしかすると一三の兄かもしれない
唯一、光次、一三で123となるからな
緑井村から最初に上京したのはこの光次だと思われる
田園都市株式会社起業のきっかけを作った畑弥右衛門は尾崎の秘書で河野光次と繋がりが深いようだ
一三はこの光次の支援で東急に関わったんじゃないだろうか
ところで猪瀬直樹がこの経緯を『土地の神話』という本に書いているらしい
猪瀬と言えば尊師の好きな作家の一人
ひょっとすると一族の事を書いているからということで読んだんじゃないんでしょうかね
繋がりが不明な縁者の河野勝美という人物も光次の系列かも知れない
後、畑弥右衛門が朝鮮の開発を手掛けていたと言う情報もあった
何かありそうですなこの辺りは
ネットの検索だからよく分からんのだが、光次は『春秋四十年』と言う本を書いているらしく猪瀬本では参照に使われてるな
これを入手出来たらなあ
五島慶太と河野一三の繋がりだったり色々気になることは多いな
河野光次は1882年生まれらしいでふ
河野唯一は1970年時点で90歳を越していたらしいので、1880年以前に生まれてることになる
有能が現れてて鞠弾む
>>78
戦前朝鮮で警察官やってた縁者とか
また智津夫っちとの共通点ができましたね
智津夫っち人生に大きな影響を与えたのは水俣病による弱盲
↓
水俣病の原因は皇太子妃の祖父
↓
朝鮮で天皇家の親戚になった河野一三と外地(台湾)で警察官になった河野唯一
↓
朝鮮で警察官やってた智津夫っちの親父
かなり画像荒いですがそこはご勘弁ですを
推測通り河野家の菩提寺が専蔵坊であることが分かりました
http://imgur.com/ffEHtSM.jpg
光次の家も色々大変だったことがうかがわれますね
近衛篤麿に出した手紙もありますを
安佐郡緑井村となっていますね
http://imgur.com/1u9kzzc.jpg
http://imgur.com/s8ccVo8.jpg
唯一、一三との繋がりが今ひとつ分かりませんが光次もまた明治三十年代に朝鮮へ行き、事業に失敗したという情報がありました
広島周辺在住の芋で専蔵坊までいけるならお願いします
唯一はもちろん、一三、一英、光次の墓があるかもしれないでふ
>>95から宇那木神社の神職玉木家と河野家は姻戚関係があったことが判明しました
http://archive.is/ggFWX
ここに書かれている玉木真佐雄(幸直)の娘が河野家に嫁いだか、息子が養子入りしたのではないでしょうか
更に詳細な親族関係を明らかにするためには光次の自伝『春秋四十年』が重要になってくるのですが、国立国会図書館にもないですね
光次は1956年、約74歳までの存命が確認されている
堤康次郎受信書簡から判明
http://www.waseda.jp/archives/tsutsumi_5_2.pdf
早稲田大学 大学史資料センターで閲覧できるようですが事前申請が必要
東京にいく芋がいれば確認して欲しいところです
ちなみに光次も早稲田出身らしい
まだ推測の域を出ないがこういう流れなのではないかと
係累ゼロで海を渡ろうとは普通思わないからな
一三が朝鮮に行くまでにはそれなりの理由があったのではないかと
光次、近衛篤麿らのアジア主義に感銘、アジア各地を日本領とし欧米の干渉を防ごうと決意→
兄唯一と弟一三も影響を受ける→
光次上京し尾崎行雄の書生となり早稲田入学→
理想を実現するため朝鮮に渡る→
弟一三を呼び寄せる→
一三、平田百貨店に就職→
一英誕生→
光次、事業に失敗して日本に戻る→
尾崎の秘書畑弥右衛門らと共に田園都市株式会社に関わる→
一三を呼び寄せる→
一三、田園都市株式会社の子会社東急電鉄と関わるようになる
ところで畑弥右衛門ってはたけ・やうえもんでええんか
はたけや・みぎえもんちゃうよな
>>100
「はたけ・やうえもん」が正しいようですね
猪瀬の『土地の神話』が詳しい
文学館管理人さんの指摘は鋭かったと重ね重ね思います
>>59
以前チンパカでワンツーフィニッシュだった苗字サイトのランキングがリセットされていました
これはいけない
https://name.sijisuru.com/Fname/fdetail?fname=%E5%94%90%E6%BE%A4
http://archive.fo/UGJy5
過去スレの情報も参考になります
河野一三は中野正剛と繋がりがあったのですね
これなどもアジア主義を信じる光次の影響ではないでしょうか
>>99
レジェンド1Aの父なのに受け身の人生やな一三
光次は立候補する金を稼ぐため明治三十七年八月~明治四十二年まで朝鮮にいたようですを
畑も一緒に渡り、こちらは明治四十四年まで留まった
興味深いのは商売を始めたのが龍山だったということ
ここで村井啓助と結び付く
当時龍山は日本人の人口が急激に増えていっていたらしい
土地開発にも関わり、ここでの経験が田園都市計画に繋がっていのではないでしょうか
>>104
まだ光次と一三の続柄がはっきりしてないけどな
・同姓で緑井村出身(異説あり、縁があるのは確定)
・明治の末頃に朝鮮へ渡り、京城・龍山地区と関わりがあること
・田園都市株式会社に深く関わる
偶然にしては余りにも共通点があり過ぎる
光次はかなり優れた人物だった
一三の動きに影響を与えてるんじゃないかと思う
当時は今より縁故の力は大きかったと思うんだよな
まだ若い一三が朝鮮に渡ることができたのは、身内の援助があったからこそではないだろうか
龍山水産の設立は明治四十一年だな(『朝鮮の都市 京城と仁川』より)
まさにこの時期に畑と光次は龍山にいたわけだ
村井啓助と縁があってもおかしくない
>私の伯父河野光次は、二十年ほど前に没しておりますが
>(平塚市河野三郎)
https://books.google.co.jp/books?id=knuwAAAAIAAJ
ビンゴ!
光次は一三の兄で確定でふ
>>109
推論もほぼ当たりやろなあ
河野三郎はよくいる名前だが、ここまで要素が被って別人はないだろう
住ポンの平塚市に名前はないね
河野兄弟の年齢
唯一(1880?~197?)
光次(1882~?)
一三(1886?~1968)
「二十年ほど前」と言うのがいつの時点を指して言っているのかは不明だ
週刊新潮を読むしかないな
だが80は越えていたと思うから
そこそこ長生きの家系だな
1Aも生命力があれだからな
尊師も長生きするかもしれん
ここ最近河野家の調査が活発化してるし、一度wikiにまとめて加筆してもいいんじゃないかな
もしエビケーが急に閉鎖されてこのスレが見れなくなったらもったいないし
河野千代は年齢的に光次の妹・一三の姉にあたるのではないかと思われますを
唯一の妻であれば夫と同じ墓に葬るのが順当なので
行敏とはるぢは指摘されている通り河野兄弟の誰かの子供ではないでしょうか
>>113
一応魚拓はとっておきますを
関東圏芋・中国圏芋の協力を仰ぎたいでふ
光次関係の資料は東京に集中しているし
広島の専蔵坊には確実に河野家の墓があるはずなので
『芸藩通史』にも記載される由緒正しいお寺でふ
尾崎行雄の養女多満は光次と結婚している
義理とは言え娘婿
尊師の親戚がまた増えたことになる
どこかに若い頃の全盛期1Aの写真とかあらへんかな
>>117
一英の場合、国立国会図書館のデジタル配信でも文章がかなりあるのでその辺り見ていくと若い頃の写真もあるかも知れないでふ
先祖調査路線最近過疎気味なので新芋の参入期待してます
【速報】尊師の高祖父の名前、判明
http://archive.is/sxaGz
>養子・たま
>明治22、東京、浅見萬吉三女
>広島、河野唯助二男、光次に嫁す
河野光次写真 「東京横浜電鉄沿革史」より
https://i.imgur.com/vUIJDSv.jpg
https://i.imgur.com/b7n9pn5.jpg
渋沢栄一一行の集合写真に写っていたものです。
ざっくりしか読んでませんが、この本には写真のみで河野光次の記述なし。
生え際の後退の感じや仕方が河野一英と似ていると思いました。
>>120
出感
真ん中の髭の人がそうでふか
未確認ですが尾崎咢堂全集5巻にも光次と尾崎一家の家族写真が載っているらしい
>>121
そうですね。
一三とは眉間の幅や下唇の感じが似ていると思いました。
尾崎咢堂全集5巻も近日中に確認します
河野三郎が光次について発言しているのは週刊新潮平成5年の12月16日号の86ページ、「週刊新潮掲示板」と判明しました
河野唯助ってのが一三の父なんか
>>123
>週刊新潮掲示板
これカラケーつくられそう
今のところ一三の子三郎が光次の甥であるというものがあるだけで一三を直接唯助の子とする史資料はない
ただこれだけ証拠があるのでもうほぼ確定
・一三の兄が唯一で「唯」の字が共通する
・緑井村に河野唯一が実在する
・光次は緑井村の出身
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/962178/7
NDLのデジタルアーカイブで光次の北米旅行記が読める
奥付によると住所は東京府荏原郡馬込村一、三四一番地
尾崎咢堂全集見たですを
光次所蔵の尾崎家・河野家の家族写真で光次の子光彌や妻の多満が映っていました
>>126
出感
当職も見たですを
今の大田区馬込の辺りですね
台帳から所有権の移転を調べられるかもしれない
>>126
この北米旅行記の序文に「於宮島」とある
実は河野唯一が晩年宮島駅の東海岸に住んでいたと言う情報が存在している
1920年にはもう緑井から移動していたのかも知れない
村井家のイマイチ実態の分からない大閨閥との繋がりより
光次と尾崎行雄の関係が尊師のファミリーヒストリーにおいて決定的に重要やったんやな
その核心的情報を握っているのが尾崎と同じ首都の首長となった猪瀬直樹というのも因果な話
>>129
尊師立候補路線もありえるかも知れないと思った一瞬でした
猪瀬は多分河野家にも取材に来たのでしょうね
ひょっとすると一英や三郎の家に行ったかもしれない
光次の読み方がちゃんと記されていたり私家本を使用したりしているのはその成果ではないでしょうか
>>130
ちなみに尊師と猪瀬直樹の息子は同い年
猪瀬は作家として恒心に充分な影響を残したな
よくわからんコラム書いとるようなのとは格が違った
尊師の血となり肉となったんやな
http://imgur.com/rKVFeyX.jpg
http://imgur.com/ht9fApg.jpg
画像荒いが『皇道世界』から「北支機械農場」
光次の交友関係の広さが分かる
葛原猪平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%8E%9F%E7%8C%AA%E5%B9%B3
http://archive.is/goriU
>葛原冷蔵会社は整理の前提として二十六日の臨時株主総会で社名を東洋冷蔵会社と改称し田中政明、久保田勝美、村田信乃、河内曉、河野光次
ここでの光次は同一人物のようでふ
河野唯一と同じように名前が被る人が結構いる
唯一関係資料見てますが身が震える
その晩年の様子も背筋が凍りましたが
唯一、中道と並んで緑井三聖人とまで言われた一人について化けの皮が剥がれたとし、後の記述でボロカスに書いてある
闇が深いでふ
筆者は唯一の事は尊敬していたようでありがたいと書いている
だが晩年の窮状についても述べている感じですを
>>137
晩年は借金苦で貧乏暮らしでもしたんか
1Aは戦時中軍隊におったしロクな資産もっとらん時期かな
>>138
戦後ぐらいの頃か、「朝鮮で成功したとふれ込んで」銀行の事業を始め、アメリカやハワイからの送金を預かって破産、夜逃げ同然で宮島に移り住んだらしいですを
息子娘はともに早死にで緑井に来る時も昼ではなく夕方か朝だったとの事
もしかしたら戦前かも知れないけど、アメリカとは仲が悪かった頃なので疑問がある
時期は不明と言うしかない
>>140
日米開戦直前までは資産凍結とかなかったし
戦後に朝鮮いうてもあんまり効果なさそうやから
開戦前くらいのイメージはあるな。戦後の状態知らんから適当やけど。
しかし当時の銀行って平気でブッ潰れるんやね。
00年代も統廃合せな潰れたの多かったかもしれんが
>>141
もしかしたら朝鮮戦争関係でふかね
報徳銀行を開業とあるので戦前のことかとも思ったんだが
一三が晩年に学会に帰依したのも二人の兄の不運が背景にありそう
問題の唯一関係史料の開示を切に望む
上級国民だと有能が本気出せばかなり掘れるんだな
一般人だとそんな資料もないから躓きそう
ファミリーヒストリー並の調査力
河田登『移民の経験記』より
昭和45年2月4日
http://imgur.com/PnES7v0.jpg
http://imgur.com/XRpEEoM.jpg
昭和48年10月30日
http://imgur.com/8njAva2.jpg
この間に唯一は死去したと考えられる
今泉は間違いで今井が正しい
なぜ筆者がここまで辛辣なのかは分からない
>>146
これが佐東町役場にある今井一の碑ですね
http://stat.ameba.jp/user_images/20121021/00/mako1110/6f/fc/j/t02200165_0640048012246842691.jpg
今井一は産婦人科の医者だったらしい
昭和8年9月5日
http://imgur.com/9rBfz6G.jpg
昭和25年5月
http://imgur.com/ro6Oeov.jpg
>>148
位置的に今のサカ緑井病院が旧今井医院と思われますを
>>146
の解像度唐澤だったのでやり直し
昭和45年2月4日
http://imgur.com/O6Km4KX.jpg
http://imgur.com/hN3GyQI.jpg
昭和48年10月30日
http://imgur.com/p61XZng.jpg
当職Wiki編集芋
Wikiに載せたいけれど、内容が複雑で難しいのでまとめて頂けたらWikiに載せるナリ
>>152
出感
河野唯一はざっとこんな感じでふ
1880年頃~1973年頃
尊師の曾祖伯父
河野唯助の長男?
出身は広島県沼田郡緑井村
緑井村青年会長
大篤志家
中道卯之助、今井一と並んで「緑井の三聖人」と呼ばれた
緑井村立尋常小学校に寄付を行い、数百冊の書籍を設置させた
朝鮮で成功したとふれ込んで、報徳銀行を七軒茶屋駅付近に開業するが、アメリカやハワイからの送金を預かって破産、夜逃げ同然で緑井を離れ宮島駅(廿日市市)の東海岸で暮らす
昭和48年までに死去
>>153
ボロクソに言われてたのは今井一って奴?
「緑井村に産婦人科病院を開業した医者で村会議員でもあった」という事らしいですを
>>154
今井氏でふ
著者がハワイに移住する際に一悶着あったからのようです
地元では飽くまで偉人という風に言われているみたいですを
専蔵坊の近所の芋はいますか
七軒茶屋駅からの降りた方が近いようだ
金に縁があるのか無いのか
>>157
光次も唯一も有能なはずなんだがなぜか報われてない印象がある
ただ光次は重役を務めていた痕跡もあるので知名度こそないが晩年は裕福だったのかも
再婚したのかは不明
過去スレで出た情報だと東京都港区赤坂1-11-3の正福寺が村井家の菩提寺らしい
分家した家で菩提寺を変えている場合があるから何とも言えないけど
村井啓助らの没年は判明するかも知れない
光次の伯父の玉木厳雄を発見
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910378/264
http://i.imgur.com/rbIP1Yg.jpg
>>160
出感
玉木家の方でも調べてみる必要がありますな
>>160
安佐郡の人名に河野姓の者達が複数おりますが緑井村の河野はいないんですね(ガッカリ
三聖人の一人中道卯之助のご尊顔。かなり有能そう
http://i.imgur.com/JQgWdkz.jpg
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1052194/97
今井、中道はいても河野唯一はいないなあ
>>142
朝鮮戦争のあと1951年6月から4ヶ月程度の不景気が起きて
その後1951年10月から再び好景気になって
1954年春ごろから再び不景気になったそうやから
戦後の話やとこの辺の出来事やろか。
>>162
中道は緑井信販講利組合の組合長でもあったらしい
ぐう聖の評価は間違っていない
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1032993/250
高度経済成長期の頃じゃないか
>>166
1880年代生まれなら1950年の朝鮮戦争でも70歳あたりだから
高度経済成長期はもうヨボヨボやろ
顧問に納まるならまだしも自力で企業するには体力が必要。
戦前の朝鮮開発期か、戦後の朝鮮戦争のどちらかが妥当じゃないか
大阪朝日新聞 1922.12.15 (大正11)
報徳銀行も遂に休業
積善銀行の飛沫を受けて帳簿整理の為め本日より二週間
四谷銀行Wikiより
1922年(大正11年)11月、高倉為三が実権を握っていた京都市の日本積善銀行の取り付け騒ぎと休業に始まる、銀行の連鎖的な休業の流れの中で、京和銀行、京和貯蓄銀行、報徳銀行、報徳貯蓄銀行、下谷銀行、高平銀行、四谷銀行、国民銀行、大分銀行が順次休業に追い込まれた。
>>168
出感
大正バブル崩壊の煽りを受けて破産したのだろうか
七軒茶屋付近で報徳銀行が存在したと言う資料はなかなか見当たらない
>>168
その報徳銀行は1911年には東京に本社があって、広島支店・呉支店が確認できる
でも唯一が役員として見当たらないし広島の田舎発祥の会社にも見えない
唯一の資料残りですを
当職は台湾総督府勤務の河野唯一は別人ではないかと考えています
大正初年に緑井村青年会長を務めながら台湾まで通うのは難しいだろう
明治43年4月1日
http://imgur.com/qMxMvbS.jpg
http://imgur.com/He5K174.jpg
大正2年12月4日
http://imgur.com/LrNeSVz.jpg
大正5年1月28日
http://imgur.com/2cRllhr.jpg
http://imgur.com/P3T2Lps.jpg
http://imgur.com/pbaGLar.jpg
昭和元年11月13日
http://imgur.com/hfkwo4m.jpg
新川を渡ってすぐ、山手側に河野邸が存在したらしいがどこかまだはっきりしないな
河野家調査難航中ですを
河田は河野唯一邸前を辞した後、「暑い程照付ける午後新川添いに歩き、中井・中野・植竹と子供代其ままを仰ぎ帰った」と書いている
植竹は他の記述から植竹稔とはっきりしており、広島県広島市安佐南区緑井8-10-22
中井は中井ぶどう園で8-11-36
何れも川沿いに家がある事が確認出来る
中野は8-11-27の中野勇ではないだろうか
もしかすると植松と中井の間に別の中野がいたのかも知れないけど
そのから探っていくと
8-13-20に河野和典と言う税理士宅があるのが気になる
この家は住所でポンで河野姓を探して見つかる一番古い家であり
典は典男に通じるしな
どちらにしてもまだ確証はない
唯助→唯一と土地の相続が分かれば
ほぼ系図完成するのだが
唯一と光次の疑惑子孫開示に身が震える
いや光次は一三と一緒に田園調布に身が移っとるから唯一か
そういや東光院は真言宗やな
10~20代くらいの唯一子孫に
テレビに出てる唐澤貴洋さんの親戚ですよって教えたら
どう思うんやろな
別にどうも思わんやろ
さすがに臭い
中道卯之助は生家が酒造家ということなので中道酒造がご子孫だと思われる
旧今井医院と推測されるサカ緑井病院とそれほど離れていない場所にある
この七軒茶屋と呼ばれる地域は緑井で人が多く集まって商売も盛んな地域だ
>『芸藩通志』の沼田郡緑井村絵図に市ヶ坪の地名があり市が立っていました。
>50m先には旧安佐町役場=現広島市安佐南区佐東出張所と佐東公民館があり、旧緑井村の中心集落となっていました。神社の南側には中道酒造=現在は廃業があり、社殿や境内を私財により寄進したといわれます。
河野一族も神社に寄進してるかもしれない
直接関係はないが比治山学園の国信玉三は緑井村で重役だった沖本丈助の五男だそうですを
とりとり
忙しくて全然カラケー見ていない間に次々と新発見があり身が震える
>>179
多摩川浅間神社には河野家は寄付していなかったようですが
西森稲荷神社
https://goo.gl/maps/mY2i2wTUWPN2
には河野(こうの)文江(ふみえ?)なる人が寄付していましたね
http://imgur.com/VfNOx2H
関係者でしょうか
あと沼部駅近くに河野(こうの)歯科医院がありますが
http://genki-moto-doctor.jp/2013/03/22/kouno/
関係者でしょうか
>>180
http://archive.is/ptp4f
河野文江さんはこの人かも知れないですを
少なくとも馬込に親戚と考えられる光次が住んでいたことは確かだ
>>181
迅速なご対応ありがとうございます
77歳まで米屋を経営ということは関係者じゃないかもしれないですね
平成19年時点で85歳ということは1924(T14)年生まれですか…
馬込といえば戦前は馬込文士村があり、かなり華やかだったようでふね
https://www.magome-bunshimura.jp/walking-course/map/
隙自になりますが当職どことは言わんがサティアンに気安くけんまできる場所に住んでおりますから何かお手伝いできることがあれば教えてください
>>182
出感
新しい恒心史跡になりそうな場所として
東京都港区赤坂1-11-3 正福寺
村井家菩提寺
村井啓助らの没年が判明する可能性がある
広島
安佐南区緑井4-34-17
専蔵坊
河野本家菩提寺
が浮上してます
南青山の旅の図書館では河野光次が寄稿した雑誌「ツーリスト」の1930年6月号と1929年12月号が閲覧出来ます
この他にも光次が書いたものは東京に色々ある
ただ家族について触れているかは分からないでふ
>>183
正福寺はオラヒルから徒歩13分程度で行けるようでふね
https://goo.gl/maps/norrs8fxpy32
光次は重役などを歴任されていたようですが
会計士とか税理士とかではないのでしょうか
>>184
光次のその辺りの経歴は詳しく分かってないですを
葛原冷蔵に関わっていたのは明白
本人の履歴書か自伝でも入手出来ればいいのですが私家本のため難しそうですね
正福寺は村井新七の墓も存在するのか気になるところですね
不鮮明な画像で申し訳ありません。
http://imgur.com/a/8hpVg
正福寺には墓地がなく納骨堂のみかもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/akasakashofukuji/c/fec8750738c4a77b798a9c40b0c775f7
隣がアメリカ大使公邸という土地柄ポリホーモがたくさんいるので
墓けんまするのは難易度が高そうでふね。
河野光次と報徳銀行を結び付ける記述があるようですを
>右整理担任者木村授弥太 10 河野光次 10 このように東京秋葉銀行は報徳銀行に改称したが、経営状態は改善されることはなかった。
https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=pqNGAAAAMAAJ
更にこの報徳銀行の頭取木村授弥太なる人物と河野唯一を結び付ける記述も見つかった
https://books.google.co.jp/books?lr=&hl=ja&id=kURCAQAAIAAJ
>木忖授弥太〇河野唯一
兄弟説が補強された
木村が計画し河野兄弟が乗り気になったが破綻したという感じだろうか
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/829112
木村授弥太は鳥取県人
河野唯一は良い人だが、飛び抜けたお人好しでもあり事業の才は皆無と言う人物像が当職の中では浮かんできました
>>186
正徳寺は墓地のないお寺ですか
厳しそうですを
周囲の寺は墓を持っているものもありますがその中には見つからないでしょうか
もしかしたら唐澤家の墓も近くにあったりするかも知れません
この時期墓参り客も多いのでそう言う人に紛れて入れば怪しまれずにいけそうですを
報徳銀行に関してもあまり資料がないようでふ
失敗に終わった試みであるからでしょう
河野兄弟の中では一三は成功者と言えるのでしょうね
子宝にも恵まれ、一英というレジェンド会計士も生まれた
さらにその子孫は、となりますがそれはまた別のお話でしょう
後、緑井8-13-20の河野邸は少なくとも昭和中期には存在していたことを確認出来たですを
これは、もしかするとかももしかするかも知れないでふ
実はもう一つ疑惑河野家住所があるのですが
こちらは昭和中期には存在していなかったぽい
>>192
こっちは他の場所から転居してきた事が確認出来た
なので除外出来る
唯一が完全に宅地を売り払って緑井から離れていれば現地調査せざるを得なくなるが
人に貸した後に親類縁者が買い取った、河田の伝聞が大袈裟なものだったとかなら住所特定は可能ですを
これもう尊師より半分詳しいだろ
『日本資本主義確立期の資本の存在形態(三)』
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/26304.pdf
見付けた
この15コマ目に河野唯一登場
やはり東京秋葉銀行後の報徳銀行の役員(1909年)の役員として名前が現れてくる
この頃唯一は三十歳ちょっとぐらいか
光次帰朝の年でもあるな
唯一が呼び寄せたのかも知れない
明治大学図書館で『爽河 河野一英先生還暦記念特別号』を発見
この本には今まで出ていなかった情報が含まれているのではないでしょうか
>>196
若い一英の写真も恐らく載ってます
http://www.lib.meiji.ac.jp/users/visitor/others.html
チャレンジしてみる価値は高そうでふ
卒業アルバムも何件かは存在するようでふ
一英のみならず唐澤吉信の若い頃の写真も見つかるかも知れないな
>>188
事業の才はなく飛びぬけた嫌味のある尊師って傑作だわ
>>183
お待たせ!画質悪いけどいいかな?
http://imgur.com/nyC5Fvj.jpg
http://imgur.com/Ve0Z97r.jpg
http://imgur.com/jPZl5Uo.jpg
http://imgur.com/Y1PRROD.jpg
http://imgur.com/R1LsKGz.jpg
http://imgur.com/O8Hn6t1.jpg
http://imgur.com/gWbroW6.jpg
http://imgur.com/w6ocV6l.jpg
http://imgur.com/GmnBaBN.jpg
http://imgur.com/kY7a44X.jpg
http://imgur.com/51GSpnR.jpg
http://imgur.com/KLZpPcg.jpg
http://imgur.com/gobATym.jpg
http://imgur.com/olrpaNr.jpg
http://imgur.com/HqeGw84.jpg
1930年6月号には事実追及に繋がるようなことは無さげですが
1929年12月号には何ヶ所か特筆すべき点がありますね
畑というのは畑弥右衛門氏のことでふかね
「愚息光彌、雪子、芳郎等」これは光次の子供の名前でしょうな
長崎でチャンポン食べたかったとか、別府は何回も来たことがあるとか
宮島は見慣れているとか書いてあって微笑ましい
広島で一人残った私用は帰省ですかね、
三段峡には兄弟で行ったとありますがこれは唯一かも
光次は1882年生まれならばこの時46、7ですか
葛原冷蔵負債整理の後ということになりますね
東急関連の仕事でもしていたんでしょうか