巨乳JKお姉さん「僕は小さい頃親戚のおじさんの島でお城みたいな所に住んで、おじさんから深く愛されて育ったんだ…だからキミも僕とおじさんのように生きようね」助手席に生えたちんぽ「えっ…?」こういうの (13)

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1 野に咲く名無し@転載禁止 (80932dcd) 2024/09/12 (木) 22:52:01.422 ID:L6218CXEw主

あっ…🥺



“米国生まれの米国人”を公言してきたジャニー喜多川「出自の真相」【日米徹底取材】
お伽の島でおじさんと
「『僕は幼い頃、お城みたいなところに住んでいたんだよ。そこは親戚が持っていた島で、大きなお屋敷があって、お手伝いさんがいっぱいいて。そのお伽噺に出てくるような島で、僕は、親戚のおじさんからとても愛された。お互いに深く愛しあう日々を送ったんだ』
——ジャニーは、確かにそう言いました。ジャニーズ事務所の合宿所に泊まった翌朝、NHKのレッスン場に向かう時だったと思います。首都高を走る車内には、私とジャニーだけ。

ジャニーは話しながら、助手席にいた私の手を強く握ってきた。私は、『だから、ユーと僕も、僕とあのおじさんのように長く愛しあっていこうね』と、暗に求められたようで気持ちが沈んだことを憶えています」

ーで、ジャニーが未成年の頃、ある男性から「毎日、性的なことをされていた」と、聞いたと語っていたのが心に掛かっていたからだ。場所は、都内の喫茶店会議室。そこには大島さんのほか、やはりジャニーの被害者で元ジャニーズJr.の長渡康二さん(41)と元Kis-My-Ft2の飯田恭平さん(36)も同席していた。
「あの時ジャニーは、うれしそうに話していた。幼児体験によって精神的な傷を受けたとか、そんなふうでは全然なかったです」
 反対に大島さんは、今でも突然、被害時の記憶がフラッシュバックしたり、加害時のジャニーと年格好の似た男性を見ると身体が硬直するなど、後遺症に苦しむ。この4月、長渡さんや飯田さんらと、『1 is 2 many 子どもへの性暴力を根絶するAction Plan』(ワニズアクション)の活動を開始したのも

彼の幼児体験はきわめてセンシティブな事柄だし、本人亡き今となっては真偽の確かめようもないが、私は以前、歌手の秋湖太郎さん(本名・秋本勇蔵/80)からも同様の話を聞いていた。
「ジャニーの姉、メリー喜多川が、『弟は子どもの頃、男と関係を持ちながら育った。だから、ジャニーの少年好きはかわいそうな癖、一種の病気なの』と語ったそうです。私はこの話を、元歌手で女優の故・名和純子さんから何度も聞きました」
 名和純子(芸名・眞砂みどり)は、大阪松竹歌劇団(現OSK日本歌劇団)出身。戦後は、歌手興行の名司会者だった夫、太郎と新芸能学院を創設したが、ここに、純子と懇意だった喜多川姉弟も頻繁に出入りしていた。秋さんは16歳で学院生になって以来、名和夫妻とは最期まで親子のような間柄だった。

実は、1960年代初め、30代前半のジャニー喜多川は、この学院でも性加害を繰り返していた。複数の生徒から相談を受けた太郎が、本人に問い質したものの全面否定。そこで、「(太郎が)メリーに抗議すると、はじめは“弟にそんな趣味はない”といっていましたが、けっきょく泣き泣き真相を告白したのです」と、ジャーナリストの竹中労に証言している(『タレント帝国』現代書房/68年)。純子の回想は、この時の「告白」に拠ると思われる。



アメリカ生まれの日系二世
 私が、ジャニー喜多川に関心を抱いたのは数年前のことだった。日系アメリカ史を調べていた時、偶然、彼がロサンゼルス生まれの日系二世だと知った。父の名は喜多川諦道(たいどう)。ロサンゼルスの日本人街にあった高野山系寺院の僧侶で、日本人の妻との間に3児をもうけたが、長女が、ジャニーとともに一大芸能事務所を築いたメリー・泰子、末っ子がジョン・ 擴(ひろむ、ジャニーはジョンの愛称)である。
日系移民の職業としては稀有な僧侶の子2人が、日本の芸能界に君臨した——この異数な組合せは興味深く、私は少しずつリサーチを進めた。性加害については、それ以前に告発本を読んでいたし、いずれ腰を据えて調べたいと考えていた。
 だが、私が喜多川家のアメリカ時代の調査に手間取るうちに、昨春、英公共放送局のBBCが、ジャニーの連続未成年者性加害問題を真正面から扱った『J-POPの捕食者:秘められたスキャンダル』を放送。その後、事態は急展開し、放送からわずか7カ月後の10月、あれほどの権勢を誇ったジャニーズ事務所の名称がこの世から消えた。
ジャニー伝説”の綻び

 リサーチを始めるとすぐに、いわゆる“ジャニー伝説”の綻びに気がついた。そもそも、ジャニー喜多川をジャニー喜多川たらしめた武器は、「アメリカ生まれ、アメリカ育ちのアメリカ人」というプロフィールだった。荒廃した敗戦後の日本で彼がのし上がった背景には、日本人が知らない本当のアメリカを知る人物という物語が常に横たわっていた。
 本人もたびたび、「僕の場合は、幼い時から見続けてきたミュージカルとかハリウッド映画が既にレールを敷いてくれてる」(「SPA!」90年7月4日号)といった発言をすることで伝説を華麗に紡いだ。
 マスコミも同様だった。いくつか例をあげてみたい。たとえば、以下はジャニーがマスコミに登場し始めた頃の「週刊サンケイ」の記事(65年3月29日号)。

本人の死後も神話は再生された。
「幼少期から日本とアメリカを行き来して双方の文化を吸収して育ったこと、それがその後の彼の創造性にきわめて大きな影響を及ぼしたことは間違いない」(「芸術新潮」2022年6月号)
 ところが実のところ、彼がアメリカで暮らした歳月はほんの5年前後にすぎないのである。
 ジャニー喜多川が、ロサンゼルスで生まれたのは31年(昭和6)10月23日。だが、そのわずか1年10カ月後の33年(昭和8)8月26日に一家は揃って日本に引き揚げている。ロサンゼルスの日系新聞、『羅府新報』から出発前日の記事を引用する。
「喜多川諦道師は愈(いよいよ)明日午後四時出帆の秩父丸に乗船、家族同伴帰朝の途に上る事となった。……故国の教化界に入って活動する事となったのである」
 出国時、2歳未満だったジャニーに、幼児期アメリカの記憶はおそらくなかったろう。
 そして、その後、再び彼がアメリカの土を踏むのは、第二次大戦後の49年(昭和24)11月24日。実に16年後のことだった。
 ところで、これに関して、旧ジャニーズ事務所が設置した「外部専門家による再発防止特別チーム」の調査報告書は、「1947年」と記している。しかし、これは誤りだ。やや執拗と思うが、その根拠を述べたい。なぜなら、元検事総長を座長に持つ同チームの調査報告書は、現在、多くのメディアが依拠するところとなっているからだ。
 まずは、真言宗寺院向け雑誌、「高野山時報」49年11月号の近況欄より。
「本宗関係者で年内に渡米する人……喜多川諦道師の子供さん等四五名に達す」
 次に、『羅府新報』49年11月22日付。見出しの「ゴードン号 来る二四日入港」に続いて「上陸する日系人船客は左の九十三名」とあり、「北川安子、北川弘」と、誤字ながら姉弟の名が見られる。
 翌50年にも、真言宗の専門誌「六大新報」1月号に以下の短文が掲載された。
「喜多川諦道師(大阪市在住) 長女泰子、長男眞一、次男擴の三君は昨年十一月渡米」
 極めつきは、49年11月24日の米司法省移民帰化局の入国書類で、「Yokohama」発「SS“GENERAL F. H. GORDON”」の乗船客リストに「KITAGAWA, MARY YASUKO 21」と「KITAGAWA, HIROMI 18」の名がある。HIROMIは擴の聞き取り違いだろう。数字は年齢を示す。ジャニーは、この時すでに18歳になっていた
さて、16年ぶりにアメリカに戻ったジャニーだったが、翌年6月に朝鮮戦争が勃発。米国籍の彼は、米軍人として戦地に送られた。その上、53年7月の休戦後も、彼はアメリカに戻らず中継地点の日本に留まった。そして結局、亡くなるまで日本に永住したのである。
 ジャニーの米軍入隊日は不明だが、作曲家の服部良一(1907〜1993)は、50年(昭和25)9月初旬のロサンゼルス興行時に、現地にいたジャニーに出会っている。したがって、この事実を鑑みれば、2度目の滞米期間は長くて3年8カ月、短ければ9カ月ということになる。幼児期と合わせても2年7カ月から5年半——これが、ジャニー喜多川の全アメリカ生活なのだ。「アメリカ生まれ、アメリカ育ちのアメリカ人」というより、少々長めの留学や赴任といったほうがふさわしい。

本記事の全文(約12,000字)は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「【新連載】日米徹底ルポ「誰も知らないジャニー喜多川」第1回 僧侶の父、アメリカでの虚実、母の早逝、和歌山への移